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インタビュー:田中一成 APIC常務理事(前駐マーシャル諸島共和国特命全権大使)

インタビュー:田中一成 APIC常務理事(前駐マーシャル諸島共和国特命全権大使)

2025年3月31日付でAPICの常務理事に選任された田中一成氏(前駐マーシャル諸島共和国大使)にインタビューを行いました。これまでの赴任地での経験や、現在の立場から見たAPICの役割等ついてお話を伺いました。【2025年12月11日実施。聞き手:APIC職員 加藤】


1.2025 年3月末に APIC の常務理事として選任されましたが、それまでの経緯や APICとのかかわり等についてお聞かせください。

1981年に外務省に入省して以来、約44年間にわたり、太平洋島嶼国、オーストラリア、ニュージーランドを担当する大洋州課や大使館・総領事館での勤務が長かったので、APICの活動や存在については以前から認識していましたが、実際に直接関わる機会はそれほど多くありませんでした。また最後の在勤地であるマーシャル諸島からみていると、APICがさまざまな活動を行っていることはよく理解していましたが、太平洋島嶼国ではミクロネシア連邦関連の事業が中心のように思われ、マーシャル諸島での取り組みは難しいのではないかと考えていたのが正直なところです。

しかし、常務理事として改めてAPICの業務全体を見る中で、APICは実際にはさまざまなことができる可能性がある組織であると再認識しました。そのため、私の後任となった相馬大使には、ぜひAPICを積極的に活用してほしいとお願いし、実際にいくつかの具体的な提案も寄せられています。

APICの活動は、太平洋島嶼国に関していえば、決してミクロネシア三か国が中心ということはなくて、広く太平洋島嶼国を対象としているので、各大使館の皆さんには、私たちが持つプログラムの中で貢献できそうなことがあれば、ぜひ積極的に提案していただきたいと考えています。スタッフは10人に満たない体制で、工夫しながら多くの事業を実施しており、限りある予算や人員で現在の事業を大幅に増やすことは難しい面もありますが、可能な範囲で、太平洋島嶼国やカリブ諸国を対象としたさまざまな事業を進めていきたいと考えています。

APICはもともと旧制度下の外務省所管の財団法人として1975年に設立されましたが、2013年に一般財団法人となり、現在は外務省による監督下にはありません。しかし、外交を補完する役割という基本的な考え方は変わっていません。各大使の希望する閣僚級要人をすべて外務省予算で招へいすることは困難ですし、相手国の費用で訪日することも容易ではありませんが、私たちがカバーできる部分があればそれを担い、国として十分に対応しきれない部分を微力ながら補完する役割を果たすことができるのであり、民間外交の担い手として、外務省、日本政府、いわゆる「オールジャパン」の外交に貢献できる存在だと考えています。現在も外務省や在外公館から活用いただいていますが、今後もぜひ積極的に活用していただきたいと思っています。


2.長年にわたる外交官としてのご経験がある中で、最も印象に残っている任務や出来事は何ですか。

特に印象に残っている経験は大きく三つでしょうか。

一つ目はオーストラリアでの経験です。キャンベラにあるオーストラリア国立大学(ANU)での在外研修を皮切りに、メルボルンやブリスベンの総領事館勤務と通算8年近く過ごしました。日本でのオーストラリアに対する認識は、カンガルー、コアラやシドニー・オペラハウスといった断片的なものでしたが、実際に生活する中で、日本とは文化的にも歴史的にも大きく異なる社会であることを実感しました。そもそもはイギリスの流刑地として始まったものですから、イギリスの文化や伝統が基盤となっていますが、広くヨーロッパや中東そしてアジア系移民(多くはありませんが、日本からも)や、他にもさまざま移民の方々がいます。そして先住民の方々の土地や生活が奪われてきた過去と、それに対する謝罪や和解、補償の取り組みが進められている現状もあります。また、二大政党制に基づく議会制民主主義とダイナミックな政権交代を目にしました。こういった歴史や内政というのは、日本人としてそれまであまり意識してこなかった部分でした。

その後、米国でありかつ太平洋島嶼地域であるホノルルの総領事館にも計約7年勤務しました。ホノルルでは、100年以上前にハワイで開始された日系移民の苦労と特に真珠湾攻撃を契機とした苦悩(サトウキビ畑での重労働や、第二次世界大戦時での収容所での生活や、米国生まれの日系人として、日本人・一世である親の世代のとの葛藤、これを乗り越えることも目的とした日系人部隊への志願と欧州戦線での活躍)の歴史について触れる機会がありました。一方で、ハワイ出身で日系人部隊で右腕を損傷し、戦後連邦上院議員としてオバマ政権時には大統領継承順位3位となった故ダニエル・イノウエ議員に代表されるように、そうした困難を乗り越え、現在ではさまざまな形で全米で活躍し、また日本の伝統や習慣を今でも大切にしている日系人の方々の姿を見ることもできたのも、大きな経験であり、学びでした。

もう一つ強く印象に残っているのは、イラン・イラク戦争当時のイラクでの勤務経験です。戦時下のバグダッドの日本大使館に勤務し、幸い、在勤中は比較的安全な時期でしたが、その終わり頃、両国間でミサイル攻撃が始まった際には、命中率の低い旧ソ連製のスカッド・ミサイルがどこに落ちるかわからないという恐怖を実感しました。

さらに印象的だったのは、その後の湾岸戦争です。バグダッドがアメリカを中心とする多国籍軍の攻撃対象となり、その様子が連日報道や映像として流れてくる中、当時、私は日本の多国籍軍への支援策を検討する業務に携わっていました。毎晩遅くまで仕事をしていてまだ床についていたある日の朝、妻が私に「ついにバグダッドへの攻撃始まったわよ」と伝えに来たのです。かつて私たちが住んでいた地が軍事攻撃にあったのだと大きなショックを受けました。仕事としては必要であり重要な役割だとは理解していましたが、一方で、世界四大文明の一つメソポタミア文明の発祥地バクダッドが攻撃される現実を前に、アラブ・イスラムと西欧(日本も含まれます)・キリスト教の間の文明観や価値観の違いを改めて認識し、これが将来的な文明間の衝突になりかねないのではないかと懸念したことを今でも覚えています。

また、西アフリカ・ガーナでの在勤は、将来性を含めたアフリカを、そして開発協力の重要性を知り、日本がアフリカですべきことと出来ることを考える貴重な経験となりました。

いずれにしても、在外勤務の多い外務省職員の執務と生活には、家族の理解と協力が欠かせません。一人息子は小学校4年から中学1年までハワイで暮らすことにより、それまでの友人から引き離し、また、英語での暮らしに特に最初の1年間は大変苦労していました。その後帰国して日本の私立中学に1年の2学期から編入しましたが、これも大きなストレスを与えたものと思います。また、家内は、長男の心配に加え、両親の介護問題もありましたし、またいけ花のお弟子も抱えている中、ブリスベン、マーシャル諸島と同行したため、そのキャリアを寸断することになり、帰国してもその面では苦労しています。マジュロでは公邸料理人が途中で帰国してしまったため、後述のカブア、ハイネ両大統領夫妻をそれぞれ公邸にお招きしての夕食会をすべて準備するという、衛生面の留意やメニューの配慮等、停電が頻発する環境で多くの心労を抱えていました。面と向かって言ったことはあまりないですが、この場を借りて深い感謝と尊敬の念を伝えたいと思います。


3.駐マーシャル諸島共和国大使としての任期を振り返って

駐マーシャル諸島大使への任命は、率直に言えば嬉しさと同時に不安も伴うものでした。マーシャル諸島は出張で一度訪れたこともありましたし、決して未知の国ではありませんでしたが、北緯4度と熱帯に位置し、特に大使館があるマジュロ環礁は細長く道路が1本縦断する全長約40キロ程で、幅が狭いところはわずか数十メートルしかありません。釣りや海が好きであればいろいろな楽しみ方があると思いますが、そうでなければ閉塞感のある大変なところだと思いました。ここで数年間、自分に何ができるだろうかと考えたのが最初の印象でした。他方、大使公邸は海に面しておらず、また野犬が多く外に出るのも危険で、同行した家内には大変な3年間だったと思います。

実際に赴任してみて、確かに生活環境は決して楽ではありませんでしたが、日本がかつて国際連盟の委任統治を行っていた旧南洋諸島(ナウル共和国とキリバスを除く現在のミクロネシア地域、即ちマーシャル諸島共和国、ミクロネシア連邦、パラオ共和国の3つの独立国と、アメリカに属するグアム準州及び(サイパンを含む)北マリアナ諸島自治連邦)に属するという歴史もあり、日本人の血を受け継ぐいわゆる日系の方々がいたり、日本語の言葉が残っていたり、主食が米であることなど当時の名残が感じられ、また外国ではありますが、治安面でそれほど問題がないこともあり、周りの人々の考えていることがよくわからないことや、あるいは違う文化の中に入っていくことに対する緊張感のようなものはそれほど強く感じる必要はなかったです(日系人が多いハワイも同様の面がありました)。また、マーシャルの人々は基本的に穏やかで協力的であり、大使館員や家内の支えもあって仕事は進めやすかったと感じています。

ただ、赴任時は新型コロナウイルスの影響がまだ大きい時期で、多くの太平洋島嶼国は自国民を含め人の往来を制限しており、殆ど「鎖国」状態でした。私たちが赴任する際も、そもそもひと月に1、2度しか入国が認められず、また入国に際し隔離の必要がありましたが、まず経由地の米ホノルルで1週間の隔離のあと、マーシャル諸島クワジェリン環礁の米軍基地内の施設での2週間の隔離を経ての着任となりました。特にホノルルの隔離先ホテルは、以前住んでいたコンドミニアムに近いワイキキの西端で良く知る界隈でしたが全く外出出来ませんでした。APICの記者招へいプログラムのコーディネーターを昨年まで務めて頂いた太平洋島嶼地域では著名なジャーナリスト・写真家であり、マーシャル諸島生まれで頻繁に同国を訪問しているハワイ在住のフロイド・タケウチ氏に夕食に誘われたものの外出が認められることはなく、非常に残念に思った次第です。

このような「鎖国」状態の為に日本との人的交流は大きく制限され、JICA海外協力隊もすべて活動を中断して帰国している等、経済協力も中断を余儀なくされる等影響を受けていましたが、2022年8月に新型コロナの市中感染が初めて発生・拡大(4万人強の国民の半数以上が感染しました)し、併せてワクチン接種が進んだこともあり入国制限措置が徐々に緩和となり、人々の往来や経済協力事業も再開され、完工が遅れて私の在任中に引き渡しを迎えた案件もいくつかありました。一方で、コロナ禍の影響による世界的な資材価格や輸送費の高騰もあり、予算の超過やその調整もあり工期が遅れ、任期中に完成できなかった案件もあり、成果と課題の両面を実感した任期でもありました。また、マーシャル諸島では第二次大戦で旧日本軍将兵19,000人以上が斃れ、未だに約16,000柱以上が帰還を果たせていませんが、毎年行われていた遺骨収集・調査団や慰霊団の訪問も、ようやく2023年から徐々に再開されるようになりました。

在任中の3年間で、大統領が交代するタイミングにも立ち会いました。着任時のデイビッド・カブア大統領(初代大統領アマタ・カブアの子息。何れも日系)は、退任直前の2023年12月に来日され、私も接遇の為帰国しましたが、駐日マーシャル諸島大使館新事務所・大使公邸の開所式に立ち会われ、また、当時の岸田総理との首脳会談も行われました。2024年1月に就任した女性のヒルダ・ハイネ大統領(デイビッド・カブア大統領の前任として1期務める)は同年3月に民間NPO主催の会議出席の為来日した他、7月の第10回太平洋・島サミット(PALM10)にも出席されました。一方で、日本からマーシャル諸島に現職の閣僚がいらっしゃる機会がありませんでした。任国の大統領や首相等の訪日や、日本の要人の訪問はそれぞれが相手国の実情に直接触れる二国間関係上大きな意義を持つもので、駐在大使として一大イベントであり大使館全体にとって大きな経験になりますので、少し残念でした。

第五福竜丸が被爆したマーシャル諸島北部ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験をご存じの方も多いと思いますが、戦前の日本に代わり、戦後、国連の下でミクロネシア地域の信託統治を委ねられていたアメリカは、マーシャル諸島北部で核実験を67回行いました。アメリカは北部の被ばく4環礁に対する補償を、1986年に発効し、これによりマーシャル諸島が独立することとなる両国間の自由連合盟約(通称第一次コンパクト)に基づき行っていますが、被ばくの影響はこれら4環礁に止まらずより南部の多くの環礁にも影響を与えていることが科学的にも明らかになっているとして、マーシャル諸島政府はコンパクトによる補償は(既に費消しつくしたこともありますが、)そもそも不十分でありより広範な補償が必要であるとの主張を米国に対し行っています。しかし米国は、第一次コンパクトで右補償が「完全かつ最終的な解決」と規定されていることから、補償の見直し・追加等を認めていません。マーシャル諸島ではこの補償問題を含む「核の遺産(ニュークリア・レガシー)」は、同国の内政・外交を進める上でのバックボーンとなっています。

日本の福島第一原子力発電所からのALPS処理水放出の安全性についても、日本として科学的にかつ誠実に説明をして来ており、マーシャル諸島政府側からもこれを多とするとの反応は得ています。しかしこうした背景がある中で、他のいくつかの太平洋島嶼国のようにこれを理解し、支持するということについては、それが内外に及ぼすであろう影響を考えれば、慎重な姿勢を取らざるを得ないのだと思われます。科学的にも実際にその領域・海域で行われた水爆を中心とする核実験による残留放射能の影響と、福島県沖から放出されるALPS処理水がマーシャル諸島のEEZに及ぼす影響は全くレベルの異なるものではありますが、核被害の歴史を背負う国としての心情や国内政治的な制約があることを感じると同時に、唯一の戦争被ばく国である日本と、「核の遺産」を持つマーシャル諸島共和国は、共に共感し、協力しうる余地があるものと思いました。現在、マーシャル諸島では米核実験に関する博物館・研究施設の設置が計画されており、2024年のいわゆる第3次コンパクトにより米国が資金援助をする予定ですが、広島・長崎等日本の同様の施設の協力等が行われ、両国間の相互理解がさらに深まっていくことを期待したく思います。

もう一つの問題は気候変動であり、これは太平洋島嶼国にとって喫緊且つ最大の安全保障上の問題と認識されています。平均海抜2メートルのマジュロ環礁でも、毎年の高潮・大潮の季節を中心にかつて以上に海水が押し寄せ、多くの家屋に影響をあたえています。2023年に政府が策定した国家適応計画では、将来的な国民の国内・国外移住の可能性も視野に入れている程です。


4.若い世代に向けてのメッセージ

約44年間の外交官人生を通じて強く感じているのは、どのような経験も決して無駄にはならないということです。当初は予想していなかった、あるいは望んでいなかった場所に行ったり、業務に携わることもあったりしましたが、そこでの経験は間違いなくいずれ何らかの形で役に立つのだと感じました。

近年、若い世代が比較的短期間で成果を求める傾向が強まっていると感じることがあります。自分の目標が2、3年で実現しないからといって上級職国家公務員が早々に見切りをつけ退職することが問題となっています。ワークライフバランスが重視され、国会関係の作業等の更なる効率化で超過勤務を減らすことは勿論今後も続けられるべきですが、もう少し長い目で経験を積むことも大切ではないでしょうか。

また、最近の若い方々は自己評価が極めて高いように思います。もちろん自分に自信を持ってのびのびとその能力を発揮することは大切ですが、独りよがりになることなく、謙虚に、できるだけ客観的に自分を見る姿勢が重要であり、これが自分自身の成長のために何が必要かを考えることにつながり、結果として大きな力になるのではないでしょうか。

待遇面や社会保障の問題等クリアすべきものは大きいでしょうか、将来的には、公的機関と民間の間をより柔軟に行き来できる社会となり、それぞれの経験が循環して活かされることが望ましいと思います。私も外務省所管の財団法人に出向したことがありますが、準民間団体での約2年半は良い経験だったと感じています。外務省を退官し、また政府機関に戻るということはないとは思いますが、今再び準民間組織でこれまでの経験を生かしていくということは、自分自身にとっても刺激があり、前に申し上げたオールジャパンとしての外交の推進に貢献できるよう、評議員、理事そして職員の方々と協力していきたく思います。


【略歴】
青森市出身。1981年に外務省入省後、在オーストラリア大使館(在外研修)、在イラク大使館、在メルボルン総領事館、在ホノルル総領事館、在ガーナ大使館、外務本省各局で勤務。その後、総合外交政策局総務課外交政策調整官、経済局漁業室長等を経て、2018~2021年に在ブリスベン総領事、2021~2024年に駐マーシャル諸島共和国特命全権大使を務め、2025年1月に外務省退官。同年3月よりAPIC常務理事。

WHAT'S NEW

- 2026.1.15 EVENTS
第424回早朝国際情勢講演会を更新しました。

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インタビュー:田中一成 APIC常務理事(前駐マーシャル諸島共和国特命全権大使)を更新しました。

- 2026.1.14 SCHOLARSHIP
ザビエル奨学金卒業生のインタビュー記事が在パラオ日本国大使館のホームページに掲載を更新しました。

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第423回早朝国際情勢講演会を更新しました。

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第422回早朝国際情勢講演会を更新しました。

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令和7年度事業計画書・収支予算書を更新しました。

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