第8回「ハイチ便り」:ハイチの文化的特色(その3)
~ ハイチにおける宗教(キリスト教やヴードゥー教)について ~
(旗の日式典ミサ)
今回は、ハイチの歴史的・文化的・社会的な側面についての理解を深める観点からハイチにおける宗教を取り上げたいと思います。なお、詳細な宗教論や政治面に立ち入るのではなく、あくまでも市民の生活との関わりにおいて特色となる範囲にとどめておきます。
◆ハイチにおける宗教
(ハイチにおける宗教事情)
現在のハイチでは、キリスト教(カトリックとプロテスタント)が広く日常に浸透し、敬虔な信者が多く見られます。週末には教会前に多くの人々が集まっている様子が見られますし、洋装で正装しての教会での結婚式や葬式等も良く見かけます。
同時にアフリカの祖先からの流れを汲むヴードゥー教も様々な形で広く根付いています。そのほか、イスラム教やその他の宗教もありますが、その割合は緩やかに増えつつも限定的に見受けられます。
諸説あり正確かは別として、カトリック信者はハイチの全人口に対して50%以上(~80%まで諸説あり)、プロテスタントは30%弱前後で推移していると言われ、ヴードゥー教は、それだけを信仰する人は少ないとしつつも、カトリックを信仰しながらヴードゥー教も生活の一部としている人々も大勢いるというのが特徴的なようです。
(歴史的推移)
歴史的経緯において、ハイチにおける幾つかの宗教では、必ずしも平和的に併存していたわけでは無い、紆余曲折を経た時代を経験してきています。
大雑把になりますが、独立前の時代は、タイノ族等の信仰しかなかったところに上陸した欧州人によるカトリックの持ち込みと布教、タイノ等先住民族の絶滅とアフリカ系民族と共に持ち込まれたヴードゥー教(民間信仰)の増加(アフリカ系人口増加に比例)と維持、独立後は、優遇されたカトリックとヴードゥー教のせめぎ合い、プロテスタントの上陸、カトリックのハイチにおける地位確立(1860年)、カトリックによるヴードゥー教への圧力(幾度とある模様です)、カトリックによるヴードゥー教容認、プロテスタントとヴードゥー教の反目、ヴードゥー教が民間信仰から「宗教」として認知へ(2003年)といった経緯を経て現在に至っています。
(関係法令と宗務省)
ハイチでは、現憲法上、信仰・宗教の自由が認められている(2012年憲法第30条)ほか、宗教関係の法律が整備されています。また、監督官庁として宗務省が置かれ、宗教法人としての登録等を担っています。1924年5月30日施行の法律により宗務省が規定されたのが最初で、法務省や教育省の所管とされた時期を経て、1987年憲法下において宗務省設置法が施行され、現在は外務・宗務省となっています。
◆キリスト教
(カトリック)
キリスト教、特にカトリックは15世紀以降の入植期に欧州人(当初スペイン人、後フランス人等)が持ち込んだのが起源とされています。より具体的には、1492年のクリストファー・コロンブスによるイスパニョーラ島発見時(12月6日にモル・サン二コラ(Môle Saint Nicholas)に上陸(上陸した日がサン・ニコラ祭の日であったため命名)、翌7日)に上陸したのがムスティーク湾(入り江:la Baie-des-Moustiques)とされており、その際同地に大きな十字架を建てたと言われています。これについては、1983年のヨハネ・パウロ2世ローマ法王(教皇)のハイチ訪問の際に、スピーチの冒頭に「ハイチの地に十字架が置かれて約500年になります…」と触れられています。
(コロンブスのサンタマリア号の錨 MUPANAH博物館に所蔵・展示)
1818年に大統領になったジャン・ピエール・ボワイエは、当時分かれていた南北ハイチを統合しただけでなく、スペイン領(現在のドミニカ共和国)までも統合し、当時サントドミンゴにあった大司教区のポルトープランスへの移転等を要請したといいます。しかし、この動きをはじめ、ハイチにおけるカトリックとの関係についてのボワイエ大統領の立場を警戒した大司教側からの反発があり、以降幾度となくローマ教会との間で両者についての調整を試みましたがなかなか纏まりませんでした。
それでも1824年には、バチカンによるハイチの独立承認が行われるという重要な出来事もありました。フランスからの独立承認は、賠償金等との引き替えに1825年(完全に認めたのは1938年)になんとか得られましたが、なかなか他に承認国がない中、バチカンが最初の承認国となったことは意義深いことであったと思われます(米国のハイチ独立承認は、リンカーン大統領の下の1862年でした)。
その後、ローマ法王(教皇)との間において正式に関係を規律する「コンコルダート(政教条約)」自体は、ピウス10世(PIE X)法王(教皇)とジェフラール(Fabre GEFFRARD)ハイチ大統領との間で成立した1860年3月28日まで待たねばなりませんでした。このコンコルダートにおいては、大司教・司教の任命権はハイチ大統領にあるとされましたが、これを実際に実施したのはフランソワ・デュバリエ大統領であったと言われています。しかし、その息子であり同じく大統領になったジャン・クロード・デュバリエ大統領は、同特権を放棄しました。これを受けて、ヨハネ・パウロ2世法王(教皇)は、1983年3月29日にハイチを訪問した際に、大司教・司教の任命権がローマ法王(教皇)に戻ったことを同スピーチで触れ、後の1984年8月8日のバチカンとハイチ間の「協定」によって明文にて確認されました。
なお、法王の訪問時に開催されていたユーカリスト(「聖体の秘跡」)に際し、「ここは、何かが変わらなければならない」と述べ、その後のハイチに大きく影響を与えたと言われています。
(日常におけるキリスト教)
歴史と慣行もあって、今現在も引き続き、大統領ほかが参加する、独立・建国等の関連重要記念日等における正式行事は、正式のミサ(テ・デウム:Te Deum)をカトリック教会で執り行い、その上で式典に臨みます。
また、各国の外交使節からなる外交団の長は、着任順に最古参の大使が務めることも多いですが、中南米諸国等で多く見られるとおり、ローマ法王庁(教皇)大使(Nonce Apostolique)が外交団長(Doyen)を自動的に務めることになっています。
また、現モイーズ大統領は、外遊先の一つとしてバチカンへ行き、フランシスコ法王(教皇)と会見しており、同関係を重視していることをうかがわせます。
また、地方の農村等で新しい保健所や学校等が落成すれば、神父(や牧師)が参列し、冒頭に祈りを捧げてから開所式等に臨むことが珍しくありません。校舎等の建物の開所式であれば、建物を聖水で清めることもあり、様々な場面で市民の生活に近いことが見て取れます。
(独立記念日ミサでの踊り披露)
カトリックに対して、後発のプロテスタントは1816年にハイチに布教のため上陸しました(2016年に200年を迎えました)。クエーカー教徒のEtienne de Grellet du Mobilier(Stephen Grellet)とJohn Hancockがレ・カイに上陸したのが最初です。後にポルトープランスでペシオン大統領に謁見した際に、3つの条件が課されたそうです。その3つとは、最初の宣教師はフランス人であってはならない、プロテスタント教会は政治に関わってはならない、プロテスタント教会は教育に勤しむべし、というものでした。そのためもあってか、現在ハイチの小学校の約19%がプロテスタント系、対して約10%がカトリック系とも言われています。
プロテスタントにも多くの宗派がありますが、ハイチにおける布教での特徴としては、クレオール語を中心に布教活動を行い、また多くのラジオ局を積極的に活用したとのことです。
◆ヴードゥー教
ハイチには、独自の宗教であるヴードゥー教(Vodou、Voodoo(英)、Vaudou(仏))があります。ヴードゥー教は、必ずしもハイチだけではなく、それらの人々の祖先に当たるダオメ(現ベナン)、トーゴやコンゴ等におけるもの、そして派生した米国のニューオーリンズ等におけるもの等もありますが、ハイチにおける特徴的な要素の一つであることは間違いありません。「ヴードゥー」の語源自体は、ダオメ王国のフォン族のVodun(精霊・神)から来ていると言われ、200年以上前にアフリカからハイチの地に人々と共に持ち込まれました。なお、当時はばらばらであったそれぞれの出身地の信仰が次第に合流し、また、当時の先住民であるタイノ族等の信仰・習慣も合わさり、そして後にカトリック主流の時代にそれらの要素も多く統合(習合と表現されることが多い)しながら独自のハイチ・ヴードゥー教を作り上げたとされています。
遠く日本の我々からすれば、ヴードゥー教という言葉自体は耳にしたことがあっても、おどろおどろしい呪術的なイメージ止まりのことも多いかも知れません。おそらく、米国によるハイチ統治期間以降ヴードゥーについての紹介が増加し、併せてゾンビや呪術的なイメージが広まり、次第に「ゾンビ」が一人歩きして小説や映画で活躍するようになったものと見られます。また、有名な007の映画「死ぬのは奴らだ」(1973年)でもかなりカリカチュアされたイメージで登場するくらいなので、そうした魔術的なイメージが広がる時代的な背景があったのかも知れません。そうしたイメージ先行の感が拭えませんが、これが何処で信仰され、どのようなものか、まだ実践されているのか等は必ずしも知られていないでしょうし、ハイチと結びつく人も多くはないのではないでしょうか。
ハイチでは、その独立のために当時蜂起しようとしている者が、1791年8月14日に「カイマンの森」に集結し、ヴードゥー教の儀式を執り行い独立の達成を誓ったと言い伝えられています(Cérémonie du Bois-Caiman)。また、この求心的役割を担ったのがウンガン(神官・祈祷師・司祭等と訳される)のブークマン(Boukman)であったと言われています。この伝承もあって、ハイチ人にとって、ヴードゥー教は一つのアイデンティティであり拠り所と見られている面があります。独立前も独立の後も、厳しい生活環境下で、そして社会環境下で拠り所となったことは想像に難くありません。
しかしながら、独立前後まで遡って、1801年憲法、1804年憲法等を見ても、ヴードゥー教は正式な位置づけはなされていません。
その後、かなり時代が下った1970年代に、独裁者として有名な父子デュバリエ大統領時代にはヴードゥー教が政治的に利用(悪用)された時期もありました。
また、1935年9月5日の法令では、迷信的な実践(事実上ヴードゥー教を指しています)を禁止し、反した者を処罰し、関連のものを没収するという厳しい取り締まりが導入されました。どちらかというと、このようにヴードゥーの歴史自体も厳しい苦難と共にあったように見受けられます。
これに対して、1987年憲法第297条では、上述の1935年の法令を廃止するとしたので、事実上ヴードゥー教を禁止する法令はなくなりました。
また、2003年には、アリスティド大統領が発出した大統領令により、ヴードゥー教は「宗教」としてのステータスを認められました。同大統領令第2条により、全ての最高指導者、寺院・聖地の責任者、機関・組織の代表は宗務省に承認を求めることができるようになりました。また、同5条においては、民事裁判所における宣誓を行った最高指導者、寺院及び聖地の責任者は、洗礼・婚姻・葬儀を執り行うことができるとされました。また、同大統領令の前文において、ヴードゥーについて、祖先の宗教であり国のアイデンティティの基本的構成要素の一つであると述べられています。
なお、2012年の憲法改正により、1987年憲法の297条は廃止され、ヴードゥー教関係者からは、ヴードゥー教への憲法上の保護の後退だと批判されました。
(最高指導者)
2015年9月にはヴードゥー教最高指導者(アティ)のボーボワ(Max BEAUVOIR)が亡くなり、その後継を決めるべく暫定最高指導者(オーギュスト・サン=クルー(Auguste St CLOUS/後に王を名乗ります))が指名され、その後KNVA (Konfederasyon Nsyonal Vodouyizan Ayisyen: ハイチ・ヴードゥー連合)による選挙でジョゼフ・フリッツナー・コマ(Joseph Fritzner COMAS)氏がアティ・ナショナルに選出され、現状は指導者が併存しながら現在に至っている模様です。
(ヴードゥー教 アティ・ナショナルとKNVAの幹部の方々)
ヴードゥー教は、組織的な見方をした場合、比較的ゆるやかな面があります。厳格な指名/任命による絶対的なピラミッド構造というものではなく、神官への就任についてもフレキシビリティがあるようです。そもそも聖書やコーラン等にあたる厳密な書・聖典はなく、自然の真理に聞くという泰然としたものと捉えられているようです。とは言いつつも、最高指導者は存在し、アティ(ラティ)(Ati:L'Ati)と呼ばれます(王(Roi)や皇帝(Empereur)をいただいている別組織もあり、併存している状況です)。
口頭で多くを伝承してきたヴードゥー教は、信仰を要素としていますが、同時に生活であり、文化であると捉えられています。かつて、法の整備がなされていない社会において、時に紛争・いざこざの調停の役割を果たし、知恵を授け、病気に対しては薬草を煎じて与え、心身の回復をもたらす機能を担っていたと言います。また、開放的な面も信条としており、男女差なく、色々な意味において同性愛も広く受け入れて、居場所を与えてきたとも言われます。
自然と祖先を大切にし、それらと不可分な精霊を敬う、それらの精霊と交信し安堵を得ようとする信仰のようです。そのため、森を大事にしており、ハイチの現状(自然の破壊が進んでいる)を嘆き、森を再興し、大事な薬草を維持・保護したいとも言います。
コミュニティ・ベースで祭祀を司る男性の神官(祈祷師・司祭)はウンガン(Houngan)、女性の場合はマンボ(Mambo)と呼ばれ、それらを補佐する者のグループによりソシエテ(Société)を構成しています。なお、祭祀を通じて、ウンガン(マンボ)をいただくソシエテ同士の交流も盛んで、祭祀へ招待される側のソシエテは、ホスト側のソシエテのしきたりやウンガンによる決まりを尊重するという暗黙のルールがあるとのことです。また、機能的にソシエテに横断的に関わる別の組織体(オーガニザシオン)が構成されているとのことです。
ウンガンは、社会的な役割、文化的な役割を果たすと同時に神官として、合計401のロワ(精霊:Lwa)との祭祀・儀式を執り行うとされています。
伺ったところによれば、いずれの団体も、今後総本山たるバッジ(Badji:聖堂)や王国等を構築し、基盤を固めて歴史から教育まで一通り充実させていきたいとしています。
(精霊(ロワ:Lwa)について)
ヴードゥー教では、神とは言わずに精霊(spirit)に近い概念としてロワが中心にありますが、興味深いことに、多くの場合においてカトリックの聖人等と対応する関係にあったりします。これは歴史的な過程でヴードゥー教を温存する知恵であったと言われています。
極一部のロワについて(簡単に)見てみますと、先ずその出身地等により大きく別れ、【ラダ(Rada)】アフリカ・ダオメ王国等由来のロワ、【コンゴ(Kongo)】コンゴ由来のロワ、【ペトロ(Petro)】最も新しいハイチで加わったロアの3系統があるみたいです。
さらに興味深いのは、ロワと呼ばれる精霊については、それぞれに(例えが良いかは別として)ギリシャ神話の神々のように性格や好み等の人格(嫉妬深い、怒りやすい、悲しみをたたえている等)を有していると見られており、供え物もそれぞれのロアに応じたものを捧げる習わしとなっている模様です。
例えば、ラダ系では、レグバ(Legba)を交差点の守護神として、精霊の世界と人間の世界の間を取り持ち、カトリックの聖ペトロ(Saint-Pierre)に相当し、歳をとった男性で右手に鍵、左手に本を持つとされます。また、レグバは、ヴードゥーの祭祀に当たり、精霊の世界と人間界の扉を開けるため、最初に呼び出されるロアとされています。女性の精霊の代表格には、エズリ(エルズリ)・フレダ(Elzulie Freda)という愛・美・宝石等を象徴する女性の精霊があります。ラ・シレン(La Silene)はサイレン(人魚)で女性と男性のいずれもあるとされています。また、オグン(Ogoun)という戦の精霊があり、多くのオグンがあり、オグン・フェライ(Ogoun Ferei(Féraille))は鉄とサーベルの精で、カトリックの聖ジャック(Saint-Jacques Le Majeur)に相当し、白馬を駆る戦士のイメージとのことで、ペリスティル(後述)にその絵が飾られていたりします。さらに、ゲデ(Guedé)という一連の死と死後の世界の精霊があり、サムディ(土曜)男爵(バロン・サムディ)(Baron Samedi)が墓場の入り口に住む代表格ということみたいです。
これに対し、ペトロは、ハイチ系のロアで、なぜかやや気性が荒いように位置づけられている模様です。例えば、カルフー(Kalfu(Carrefour)) は、 ペトロ版のレグバということの様で、名前はそのまま十字路(フランス語ベース)です。また、ペトロ版のエルズリがあって、エルズリ・ダントール(Elzuli Dantor)等があり、強い女性・母を象徴しているといいます。
沢山あるので、ここではこの位にしておきます。
(ヴードゥー教の祭祀:セレモニー)
ヴードゥー教の祭祀(rituel(仏語))は、ウンフォ(Ounfò)と呼ばれる宗教的な建物(テンプル(Temple:寺院)と簡単に言われることもあります)の一角にあるペリスティル(Péristyle)という開放的な部屋や広間で、ウンガン(マンボ)により執り行われます。ペレスティルは、中央にポトミタン(Potomitan:そのまま、「中央の柱」の意味です)という柱と台座があり、地面は地肌のことが多いです。セレモニーに当たり、ポトミタンの周りの地面にヴェヴェ(Vévé)と呼ばれるそれぞれの精霊・ロワ(Lwa)を表す幾何学的な模様が小麦粉やトウモロコシ粉等で描かれ、蝋燭を灯し、その周りを参加者がウンガンと共に囲み、太鼓のリズムに乗りながら、歌い(個別のロアへの祈り等)、踊りを捧げていきます。それにより、その時により参加者等がトランス状態になり、その日祈りと願いを捧げた対象となるロアがポトミタンを伝わってそのトランス状態の者(Choual(Cheval(仏語)/馬))に乗る(Chevauché/乗り移る)ことにより交信を行うというのが趣旨のようです。
これらのウンフォや聖地(池や滝や森、その他)における通常の儀式とは異なりますが、太鼓のリズムと踊りの部分が切り離されて、ハイチでは、フォルクロールの踊り(民族舞踊)として一つの音楽・ダンスのジャンルが確立されています。
また、カーニバルの後、復活祭までの間は、やはりヴードゥー教と関係のある「ララ(Rara)」という音楽隊での行進の風習があります。
大抵のヴードゥー教は平和的なものですが、極一部の一派は呪術を用いるといい、この場合の神官は、ボコ(Bokor)といい区別されているみたいです。
(ヴードゥーのウンフォ前でのお清め 水とラム酒)
(ヴードゥーのウンフォ前でのお清め ラム酒をまく)
(ヴードゥーのペリスティルの中 中央にポトミタン 地面にヴェヴェの模様)
(ヴードゥー 祈りのダンス)
(ヴードゥー教 ヴェヴェの意匠を用いたアート(飾り皿))
ホラー映画で有名になったゾンビの起源自体はハイチのヴードゥー教ゆかりのものみたいですが、やや趣は異なります。死んだ人が生きている人を襲うというモノではない、とは言え、生きている人をゾンビパウダーで仮死状態にする等の穏やかではない話です。一般的なものではないとしつつも、今も少ないながらもゾンビ化(ゾンビフィケーション:Zombification)を行う者がいるとも言われています。何のためか聞いてみましたが、司法の代わりとして報復的な意味合いがあるとのことでした。なんでも、フグの毒等由来の白い粉とやらで人を生物学的に死亡と診断される状態にするとかなんとか。
最近も上院司法安全委員会の委員長である上院議員が刑法・刑事訴訟法上ゾンビフィケーションを罰する規定を盛り込もうとしたりした経緯もあります。なお、巷では、実際にこうした行為があるかどうか等よりも、こうしてゾンビ伝説が都市伝説様に広がりをもって不信感や恐怖が庶民を囲うことの経済・社会的影響の面で大きいのではという問題意識もあるようです。
ここでは、出所の解らない政治的腐敗などで出回る小切手を指して、「ゾンビ小切手」などと日刊紙の一面を飾る位日常的に使われる表現ではあります。
(日本の宗教的感覚との共通点)
ヴードゥーの中身を少しずつ聞いていると、何かしら目新しくないことに気がつき始めます。日本の神道などを直接的に重ねる必要はありませんが、「自然」を発祥としている、自然への畏敬や敬愛、祖先や家族への敬意等日本で宗教感もなく比較的自然とされていることに何かと近いことを感じざるを得ません。幸いに、アティや王様とお話をする機会に恵まれましたが、ヴードゥーは、「未知なる事柄へのアプローチであり、永遠の追求である」といった趣旨の事を言われました。また、「自然の中から全て生まれ、最後はそこに戻る」とも言います。ヴードゥーでは、大事なことは「森に聞く」と言いました。分け隔て無く人を受け入れ、癒すことが、ヴードゥーであり、精神的な、スピリチュアルな要素もあるけれども、それは生活であり、社会であり、正義であり、医療であり文化であると説明がありました。
何かがあれば、森に入るという点では、神社が山や森に構えられていることにも通じそうです。401の精霊がというのも沢山の例えであるとのことで、八百万の神と同じに思えます。何か悪いことをしたときにはバチが当たるという感覚もあるようですし、言霊というのもありそうです。
大勢の人が、厳しい自然・経済・社会の中で生きていく上で、様々な知恵と信仰が複雑に作用しているのだと改めて感じさせられます。
(※2018年時点での執筆記事)
(※写真は全て筆者が撮影)
(※本コラムの内容は、筆者の個人的見解であり、所属する機関の公式見解ではありません。)
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