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「バルバドス 歴史の散歩道」(その14)


 第8部 運命を切り拓いた人たち

寄稿:前・駐バルバドス日本国大使 品田 光彦
「バルバドス 歴史の散歩道」(その14) 第8部 運命を切り拓いた人たち
(バルバドスを代表する文学者、ジョージ・ラミングの若き日の姿)

 カリブ文学の巨匠のひとりにジョージ・ラミング(1927〜2022)というバルバドス出身の作家がいます。

 ラミングは、バルバドスで高校を出たあと、トリニダードやベネズエラを経てイギリスに渡りました。ロンドンで彼が1953年に発表したデビュー作「私の肌という城の中で(In the Castle of My Skin)」という小説はサマセット・モーム文学賞を受賞するなど高い評価を受け、現在では近代カリブ文学最高傑作のひとつにかぞえられています(註1)。

 この作品は、ムラート女性である母親とイギリス白人である父親の間に生まれたラミング自身の少年時代を回想した自伝的小説です。

 主人公は両親についてこう語ります。

 <僕の想像の中にだけ存在していた父は、自分の役割をすべて母にゆだねてしまったので母が私にとっての父でもあった。それより前の僕の記憶は消えていた。生き延びることによる結果よりも、むしろ積み荷と一緒に沈んでしまうことを選択した船乗りのように記憶は海の底に沈んでしまった。・・・> 

 <母の顔にはほとんど見えないくらいの、しかし決して消えることのない茶色いソバカスがあった。短い人差し指のように引き締まった鼻筋は鋭く真っ直ぐに下を向いていた。・・・母は世間で言うところの色白のムラートだった。・・・> 

 小説は、主人公の「僕」が9歳の誕生日を迎えるところから始まっているので、ラミングの誕生年をもとにすれば1936年のバルバドスが舞台です。「僕」と母親はブリッジタウンにほど近い、アフリカ系の血を引く人たちが住む村に暮らしています。序盤では「僕」が通う村の小学校の様子や個性豊かな近所の人々が描かれ、貧くも平穏な庶民の暮らしぶりをうかがい知る事ができます。

 村を見おろす丘の上には立派な居館があり、村を含めて辺り一帯の土地を所有する大地主の一家が住んでいます。村人の質素な家々は地主からの借家で、彼らは毎月地主に家賃を払っています。プランテーション領主である地主は船会社も経営していて、村人のなかには地主の会社に雇われてブリッジタウン港の港湾労働者として働く者もいます。

 <晴れた日には土地のどこからでも丘の上にある煉瓦作りの大きな家が見えた。あまり暑くない日であれば、あの人たちは開けた平らな丘のてっぺんでお茶を楽しんでいる。村人たちは塀のかげから木々の隙間を通して動く人影をとらえ、お茶の席というものがどんなふうにとり行われているのかを覗き見したものだ。・・・・>

 <三ヶ月に一度、あるいは大水などの災難のあとには、地主は家族と一緒に村の中の道々を馬車で見て回った。道の端から端まで見て損害の程度を確かめるのだ。村人のうちでみっともない格好をしている者は慌てて隠れようとするのだが、それが地主には面白く見えるらしい。出し抜けに視界に入ってしまった小さな男の子たちは元気よく敬礼をする。地主は微笑んでいた。横にいる夫人も微笑んでいた。うしろの座席に座る令嬢だけは、傲慢にさげすむような視線を投げかけていた・・・。>

 村の教会で日曜学校の教師をする母親とつつましく暮らし地元の悪童どもと毎日屈託なく遊び回る主人公でしたが、地主令嬢がからんだ小さな事件もきっかけに村人たちの暮らしの雲行きがしだいに怪しくなってきます。それはバルバドスが迎えようとしている大きな変動の予兆でもありました。

 小説は、主人公が“肌の色“という変えることのできない人間の属性を常にどこかで意識しつつ、少年らしい疑問や悩みを抱えながら成長する姿を追っていきます。

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<先駆者プレスコッド>

 ジョージ・ラミングが描いたように、奴隷解放後もバルバドスでは白人による経済支配が長く続きました。少数派である白人が経済の実権を握るいっぽうで、圧倒的多数を占めるアフリカ系住民の多くが極貧に近い状態に置かれたままであった最大の原因は、「土地所有の遍在」でした。

 西インド諸島のイギリス植民地はどこも似たような状況に置かれていました。ただ、ジャマイカやトリニダード、ガイアナなど大きな植民地では余剰の土地がかなりあったので、非白人が新たに開墾可能な土地を手に入れるチャンスが比較的多くありました。しかし、バルバドスやアンティグア、セントルシア、セントビンセントといった小さな島々では、有色自由民や、解放後に自由民となった元奴隷が土地を手に入れるのはなかなか難しく、経済的に自立する道が限られていたので、土地所有の遍在による階層分化が顕著でした。

 奴隷解放後、そしてそれに続く例の奉公人制度の廃止後も島のオリガルヒー--白人大土地所有者層--の経済権益独占を可能にしていた仕組みのひとつが「配置労働者システム」という制度でした。

 これは、元奴隷たちが解放前に住んでいた土地・家屋にそのまま住み続けることを許されるかわりに、地主に家賃を払い、さらに週5日間プランテーションで働くという制度です。この場合、タダ働きだった奉公人制度とは違い、労働に対しては固定給が支払われたのですが、給与水準は自由労働市場でのそれに比べ2〜3割低いものでした。

 配置労働者システムは、1840年に宗主国イギリスで定められた「マスターズ・アンド・サーバンツ・アクト(直訳すれば“ご主人様と召使いに関する法“とでもなるのでしょうか?)」という法律に基づく仕組みで、奴隷制廃止後の非白人搾取を制度化するものでした。この法律は、制定後100年間近く、つまり第二次世界大戦が始まるころまで効力を維持することとなります。

 プランテーション労働力を安定的に確保するために考え出されたこのシステムには、地主が労働者を一方的に家から退去させる権利が組み込まれていました。地主は、働きの悪い者を4週間の事前通告をもって家族もろとも家から追い出すことができたのです。

 こういった制度の下では、労働者は見えないところで出来るだけ仕事をサボろうとするか、あるいは、もっと良い待遇を求めて今いるところから出ていこうとする力学が働きます。奴隷制時代のブラック企業プランテーションの影を引きずるこういった状況が、社会の安定的発展や大多数の島民の福利に資するものでなかったのは言うまでもありません。事実、19世紀後半には、かなりの数の元奴隷とその子孫たちが島外に流出するという現象が起きています。

 バルバドスのこういう状況に最初に異議を唱えたのはサミュエル・ジャックマン・プレスコッド(1806〜1871年)という人物でした。

 「リベラル」紙という進歩系新聞の編集長をしていたプレスコッドは、奉公人制度が廃止されて奴隷が完全に解放されるとすぐ、白人富裕層がひそかに、そして急速に余剰地の買い占めを進めて地価を高騰させていることに気づきます。非白人が土地を手に入れて中産階級化し既存の支配秩序への脅威となることを防ぐのには、土地買い占めがもっとも有効な手段だったのです。

 1840年、プレスコッドは島の植民地当局に対し、こういった実情に苦言を呈する文書を提出しました。当局は調査を行い、地価高騰のからくりが彼の言うとおりであることが明らかになります。けれども、有効な対策が打たれることはありませんでした。なぜなら、対策を講じるためには法的な手当てが必要だったのですが、当時のバルバドス議会は白人に独占されていたからです。

 プレスコッドは、有色自由民の母親と裕福な白人地主の間に生まれました。正規の高等教育は受けなかったものの、独学で文才を養った彼は20代初めで詩作、劇作を始めます。社会の矛盾を鋭く描く作品は人気を博し、プレスコッドは非白人ばかりでなく白人貧困層にとっても人気の存在になります。

 奴隷制が廃止されたあと、前述のように彼は「リベラル」紙の主筆となり、土地を持てない非白人貧困層の待遇改善を訴える活動を本格化しました。地価高騰問題で当局や議会の理解が得られなかった彼は、1843年、バルバドス議会下院選挙にブリッジタウン選挙区から立候補します。そして、おおかたの予想をくつがえして当選し、バルバドス史上初の非白人議員となりました。バルバドスでまだ参政権にきびしい所得制限があったこの時代にプレスコッドが当選できたのは、投票権をもっていた中産階級非白人のほとんどが彼に投票したことを示しています。

 プレスコッドはこの後、20年以上当選を重ねます。そしてこの間、「自由党」という政党を結成し、参政権拡大やアフリカ系の人々の教育の機会拡大のために声を上げ続けました。

 が、多勢に無勢。急進的に走りがちでもあったプレスコッドの政治的主張は、白人富裕層が実権をにぎるバルバドスで報われることは少なく、彼は数々の挫折を経験しました。しかしそれでもプレスコッドの存在は、奴隷制廃止後のこの島の被支配層に将来への希望を与えるものだったのです。

 非白人として初めて政治の場で活躍した功績によりプレスコッドは1998年に「バルバドス国民英雄」のひとりに叙せられました。また、現在使われている20バルバドスドル紙幣には彼の肖像が描かれています。

「バルバドス 歴史の散歩道」(その14) 第8部 運命を切り拓いた人たち
(20バルバドスドル紙幣のサミュエル・ジャックマン・プレスコッド肖像)

<王室直轄植民地>

 プレスコッドが孤軍奮闘していた時期のバルバドスで見られたような、奴隷解放後の社会の矛盾や軋轢は他のイギリス領カリブ植民地でも同様でした。

 1865年、ジャマイカでアフリカ系住民の蜂起による大暴動が発生します。参政権を与えられず、生活状況もいっこうに改善しないことに不満を募らせたアフリカ系住民が蜂起し白人側と衝突し内乱状態になったのです。反乱は白人自警団と駐留イギリス軍に鎮圧され、アフリカ系だけで400人以上の死者が出る惨事となりました。暴動発生場所の名をとって「モラント湾暴動」あるいは「ジャマイカ事件」と呼ばれたこの事件は、宗主国イギリスでも世論を騒がせました。

 西インド諸島のほかの植民地でも大衆の不満が強まり情勢が不穏になってきたのを見て、イギリス政府は一計を案じます。

 当時のイギリスはビクトリア女王(在位1837〜1901年)の時代です。7つの海を支配し世界各地で広大な植民地を築いた大英帝国はその絶頂期にありました。自信に満ちたこの宗主国が西インド諸島の状況改善のためにしたのは、植民地住民の多数意見を反映させるための参政権拡大ではありませんでした。むしろ逆に植民地を「王室直轄植民地(クラウン・コロニー)」(註2)にして、植民地議会議員の公選制を廃止し王室による勅選制を導入することだったのです。

 その背景にあったのは「植民地においては一部富裕層が他の多くの住民の意向をくみ取ることはできない。したがって、“かわいそうな貧民階級“の利益をも保護するためには富裕層から参政権を取り上げて、賢明かつ慈悲深い王室が直轄統治するのが最善の策である」という発想です。

 暴動事件が起きたジャマイカを皮切りに、ドミニカ、アンティグア、セントキッツ、ネービス、モンセラート、イギリス領ホンジュラス(現在のベリーズ)、グレナダ、セントビンセント、トバゴなどがつぎつぎに王室直轄植民地とされました。そして、公選による下院をもっていたこれらの植民地で下院が廃止されて、従来から勅選議員だけで構成されていた上院だけが残り、一院制となったのです。

 1875年までには公選制による下院、つまり入植者の意思を多少なりとも反映した議会を維持できていた植民地は、バルバドス、バミューダ、バハマだけになりました。

<ヘネシー総督と連合危機>

 プランテーション領主をはじめとするバルバドス植民地の支配層には、いずれこの島も王室直轄植民地にされ宗主国への従属度が強められるのではないかという懸念が高まります。そのさなか、1875年11月にイギリス本国の植民地省に任命されたジョン・ポープ・ヘネシー(1834〜1891年)という新任の総督が島にやってきました。

 ヘネシーは当時のイギリス高級官吏としては珍しくアイルランド系のカトリック教徒でした。まずこのことがイングランド系イギリス国教会教徒を主流とする島の支配層に警戒心を抱かせました。さらには彼がアフリカ系やムラートの意見や苦情にも熱心に耳を傾けはじめたことから、守旧派の警戒心がいっそう高まります。

 このような中で、着任早々のヘネシーはバルバドス議会下院に唐突に6箇条から成る提案をします。
 これは次のような内容でした。
① バルバドス植民地の予算監査官は、ウィンドワード諸島植民地の統括予算監査官により任命される、
② バルバドスとウィンドワード諸島の当局は、囚人の監獄への収監を互いに融通する、
③ バルバドスにある精神病院はウィンドワード諸島の患者の入院も受け入れる、
④ 隔離病院についても同様の措置をとる、
⑤ ウィンドワード諸島全体の首席裁判官を設置し、必要に応じ司法制度を一元化する、
⑥ ウィンドワード諸島でひとつの警察組織を設置する。

 ここで若干の説明が必要になります。
 じつはヘネシーがバルバドス総督として派遣されるかなり前、1833年から、バルバドスの総督は、セントルシア、セントビンセント、グレナディーン諸島、グレナダなどといった周辺のウィンドワード諸島イギリス植民地(註3)の総督も兼ねるようになっていたのです。これは、近い将来の奴隷制廃止を念頭において、植民地統治を強化、効率化するために宗主国が導入していた措置でした。そして、奴隷制廃止から30数年後にバルバドスに送り込まれたヘネシーは赴任に際し、本国の植民地省からバルバドスとウィンドワード諸島を統合した「植民地連合(コンフェデレーション)」創設にむけての仕事をするよう訓令を受けていたのです。

 6箇条を見た島は戦々恐々となりました。上流階級のうちヘネシー総督に近く、イギリス本国に軸足を置く植民地官僚たちは総督の味方をします。しかしプランテーション領主や大商店経営者といった土着の白人富裕層は猛烈に反発しました。彼らの保守系新聞は「ヘネシーは貧民の味方のふりをする偽善者だ」と喧伝します。

 土着富裕層は、ヘネシーの6箇条にあるバルバドスとウィンドワード諸島の統治を一体化に近づける提案を見て植民地連合創設の計略に勘づいたのです。この人たちにしてみれば「格下の貧乏島どもと一緒くたにされて、挙げ句の果て彼らのように王室直轄植民地にされるのは真っ平ごめん」なのでした。

 この頃はやや落ち目になっていたとはいえ、かつてはカリブ・イギリス植民地の中でもっとも栄える砂糖産業を誇り、「リトル・イングランド」とまで呼ばれたバルバドスです。支配層の気位いの高さは相当なもので、彼らは近隣の小さな島々のことを一段下に見ていました(現在もバルバドスの皆さんには若干そういう傾向がないこともないと言えないこともないのですが・・・)。
 プライドもさることながら、彼らはまた、植民地連合などを作られた日には独自の議会を持つことで維持してきたこの島の自律性の伝統がそこなわれるだけでなく、富やプランテーション労働力が周辺の島に流出してしまうことを恐れたのでした。

 騒動は突発的に起きました。
 1876年4月18日、島の南東部、セントフィリップ、セントジョン、セントジョージの3教区にまたがる「バイド・ミル」というプランテーションで、ドッティン姓を名乗る兄弟が、なぜか長剣と砂糖キビの茎につけた赤旗を振り回しはじめます。官憲に逮捕されそうになって逃げ出した兄弟が法螺貝のラッパを吹くと、周辺の畑地で働いていたアフリカ系労働者たちがいっせいに蜂起したのです。

 蜂起には1000人ほどの労働者が加わって拡大し、警官隊との衝突となります。「連合危機(コンフェデレーション・クライシス)」と呼ばれたこの暴動は1週間ほど続き、アフリカ系に8人の死者、30人以上の負傷者を出したのち鎮圧されました。

 白人側の怪我人は警察署長ひとりだけでした。しかし、ジャマイカ・モラント湾暴動のことを覚えていた白人側のパニックは相当なものだったようです。暴動のさなかには数百人の白人がカーライル湾に停泊中の船舶やギャリソン・サバンナのイギリス軍兵舎に一時逃げ込んだといわれます。

 この暴動はなぜ起きたのか。不思議なことに後世の検証にもかかわらず事の真相は今にいたるまで解明されていないのです。

 バルバドスとウィンドワード植民地の連合化構想をめぐっては、当時「連合になると奴隷制が復活する」とか、逆に「低所得層に土地が分配される」とか、根も葉もないさまざまな風説、今で言うフェイクニュースが流布されました。一般大衆はいったい何が起きているのか理解できないまま不安に駆られ右往左往していたのです。暴動沈静後まもなく行われた島の植民地当局の調査によれば、暴動に参加したアフリカ系のほとんどが、そもそも「連合(コンフェデレーション)」という言葉の意味するところが何なのか分かっていなかったそうです。

 ただ興味深いことに、かなりのアフリカ系住民が「奴隷制を廃止して下さった恵み深い宗主国の王室によって派遣され、自分たちの話にも聞く耳を持つヘネシー総督という偉い方が、我々のためにならないことをするはずはないのではないか」と思っていたようなのです。つまり“プランテーション領主が強硬に反対する植民地連合というのは、自分たちアフリカ系にとってはたぶん良いことなのだろう“と考えていたフシがあります。

 暴動は、連合化に反対する勢力が島に混乱を引き起こして連合化構想を御破算にしようとしたものだ、いや逆に賛成派がアフリカ系を扇動して反対派の土着富裕層に圧力をかけようと仕組んだ陰謀で、裏ではヘネシー総督が糸を引いていた、など諸説あるのですが、真相は闇の中です。いずれにせよこの事件の背景には、奴隷制がなくなったあとも待遇や暮らしぶりが一向に良くならない元奴隷やその子孫たちアフリカ系住民の間にたまっていた欲求不満があり、連合論議をめぐる世上不安の中でそれが暴発したという面があったのは間違いないでしょう。

 さて結果としては、この暴動は連合化を進めようとしていたヘネシー総督に不利に働くことになりました。連合化構想に反対する島の保守層は「ヘネシーが余計なことをやろうとしたから死人まで出す騒ぎになったのだ」というロジックでヘネシーの解任を本国政府に働きかけます。イギリス植民地省は、はじめのうちは反ヘネシー勢力の懐柔を試みたようです。しかし、ヘネシーのやり方に拙速かつ強引なところがあったのは否めず、植民地省も彼をかばい切れなくなります。結局、ヘネシーは着任後わずか1年でバルバドス・ウィンドワード諸島総督のポストを離れ、イギリス領・香港の総督に異動となりました。

 こうしてバルバドスとウィンドワード諸島の連合化は頓挫し、構想自体もそのうち立ち消えになってしまいます。1885年にはバルバドス・ウィンドワード諸島の総督兼任制度も廃止となってバルバドス単独の総督が派遣されるという制度が復活し、これが1966年の独立まで続くことになります。

「バルバドス 歴史の散歩道」(その14) 第8部 運命を切り拓いた人たち
(1875年にイギリスの雑誌に掲載されたヘネシー総督の風刺画)

<ヘネシーと明治日本>

 バルバドス守旧派から見れば、”Hong Kongとかいうアジアの僻地”に飛ばされたジョン・ホープ・ヘネシーに対し「ざまぁみろ」というところだったでしょう。ただし、ヘネシー自身は異動に際して「これは栄転だ」と周囲にふれ回っていたと言う話が残っています。

 ヘネシーというのは面白い男でした。バルバドス勤務に先立ち、彼はバハマ、シエラレオーネ、ゴールドコースト(現在のガーナ)といったイギリス植民地の総督ポストを転々としていたのですが、どの任地でも在任期間が1、2年と短かったのです。他の例を見てみると、バルバドスもふくめて当時のイギリス植民地に派遣された総督は1ヵ所でだいたい3年から5、6年くらいは仕事をしていました。

 どうも、職務熱心ながら強引、直情的でまわりの空気が読めないヘネシーは、いろいろな任地でバルバドスの時と同じようにヒッチを起こしては短い期間で転勤を繰り返していたようなのです(どの職場にも時々こういう人がいます)。にもかかわらず彼に総督ポストを与え続けた大英帝国・植民地省の懐の深さはさすが- -と筆者は感心する一方で、いやむしろ問題が起きそうなところに、この非主流のアイルランド系の男を派遣して「汚れ仕事」をやらせていたのではないかと勘ぐりたくもなります。

 バルバドスでは苦い思いをしたヘネシーでしたが、次の香港では漢字名“軒尼詩“を名乗って、のびのびと仕事をしていたようです。香港の公立学校における英語教育を必修化したのはこの人です。

 ヘネシーは明治時代の日本とも縁がありました。彼は、1879年(明治12年)、休暇で香港から船で日本に来て2ヶ月半ほどを過ごしたことがあります。その際に彼の接伴役をつとめたのは当時の大蔵卿・大隈重信と工部卿・井上馨でした。とくに大隈は、東北地方などへのヘネシーの地方視察にも同行したので、道中ではヘネシーのバルバドスでの苦労話も聞かされたのかもしれません。

 ところで、そのころ明治政府が抱えていた大きな問題のひとつに、イギリスをはじめとする西洋列強との間の不平等条約改正問題がありました。

 ヘネシーは日本滞在中、大隈、井上というふたりの高官をはじめとする日本側からいろいろと吹き込まれたのでしょう。彼は日本からイギリス本国のソールズベリー外相(保守党)、グラッドストン前首相(自由党)のふたりに宛てた2通の書簡を出しています。書簡は、条約改正に関して列国の外交使節の中でもとりわけ頑固な立場をとっていた在日イギリス公使ハリー・パークスに関するものでした。そして、その内容はなんと“日本側に対するパークスの傲慢で尊大な態度はイギリスの利益に叶っていない“というものだったのです。

 日本人を見下す不遜なパークスの評判はたしかに良くはなかったので、ヘネシーの意見はまんざら的外れでもなかったと言えます。でもパークス公使は外交官なので親元は外務省。ヘネシー総督は植民地省の役人です。そもそも管轄ちがいの人事に口を出したということになります。

 その時点で駐日公使をすでに14年間もつとめていたパークスの悪口をいきなり本国の大物政治家に直接伝えるとは、ヘネシーの本領発揮といったところでしょうか。けれどもパークスは、それからも4年間日本に留まり、その後は駐清国公使になっているので、ヘネシーの意見具申がパークスのキャリアに影響を及ぼしたかどうかは疑問です。(註4)

<妥協を知る男、コンラッド・リーブス>

 閑話休題。
 さて、バルバドスにおけるヘネシー総督の拙速な行動も災いして起きた連合危機後の混乱を丸くおさめたのは、コンラッド・リーブス(1821〜1902年)という人物でした。

 リーブスは、薬剤師をしていた白人男性と黒人女性のあいだに私生児として生まれたムラートでした。当時のバルバドス植民地としてはかなり高い教育を受けることができたリーブスは、ジャーナリストを志し、前出のサミュエル・ジャックマン・プレスコッドが編集長をつとめていた「リベラル」紙で働きはじめます。つまり、リーブスはプレスコッドの弟子筋にあたります。

 プレスコッドのもとで自由主義的思想に触れたリーブスは、その後イギリスに渡りミドルテンプル法学院で学ぶチャンスをえて弁護士となります。弁護士としてイギリスで財をなした彼はカリブにもどる決心をし、まずセントビンセント植民地の法務官を務めます。そして1874年には故郷バルバドスにもどって下院議員となり、同時に島の司法長官に就任しました。当時の非白人としては、植民地のエリート階級入りした数少ない人物のひとりとなったわけです。

 そこに起きたのが連合危機でした。危機が生じるとリーブスは司法長官を辞任して、連合化構想に反対する勢力の有力なメンバーとなります。わけが分からないまま連合化に与する暴力的な行動に走ったアフリカ系民衆とは異なる道を選び、表面的には島の守旧派富裕層の側についたわけです。

 死傷者まで出した連合危機暴動がおさまると、島の植民地当局は、公選制の下院に複数の勅選議員を入れる法案(指名制法案)を提出しました。宗主国の思惑を議会でより反映させやすくしようとの思惑です。リーブスは、この法案がバルバドス下院の自律性を危うくし、王室直轄植民地化への道を開くものだとして廃案に追い込みます。

 さらにリーブスは、1881年、例のヘネシーの2代あとの総督であるウィリアム・ロビンソンの協力も得て「執行委員会」という機関を設置する立法に向けて奔走します。これは、それまで本国政府から送り込まれる総督が胸先三寸で統治を行なっていたのを改め、法的裏付けをもつ行政府を制度化しようとしたもので、のちの「植民地政府」の原型となるものでした。

 ここまでは、彼がしてきたことはおおむね島の保守的オリガルヒーの利益に沿うものでした。

 しかし、自身が非白人であったリーブスは、同胞たちにも配慮した手当てをしなければ情勢が穏当には収まらないと考えていました。1884年、彼は、参政権に必要な所得制限を引き下げる参政権拡大法の導入について下院を熱心に説得します。拡大法は、いわゆる普通選挙の実現にはまだほど遠いものではありましたが、非白人の政治参加への門戸を広げることに寄与しました。

 自らの師であるプレスコッドの挫折を間近に見、イギリス本国で政治の駆け引きを見てきたリーブスは、政治における妥協の大切さをよくわきまえていた人物でした。彼は、バルバドスをウィンドワード諸島と連合化するという宗主国の意向をうまくかわしながらバルバドス議会の伝統的自律性を守り、さらには王室直轄植民地となる種を取り除きました。そして、白人富裕層とアフリカ系・非白人層双方の欲求のあいだで絶妙のバランスをとりながら近代的な立法・行政・司法の基礎を作る仕事をしたのでした。

 功績が認められたコンラッド・リーブスは宗主国イギリスの王室から非白人として初めて“サー“の称号を与えられ、その後も長くバルバドスの首席判事(最高裁長官に相当)として辣腕をふるいました。

 現在、バルバドス議会下院の入口には彼の胸像が設置されているのですが、非白人として大きな業績をのこした彼が、現在バルバドスの「国民英雄」に名を連ねていないのは筆者にとってはすこし不思議です。これは、バランサー役としてのコンラッドが白人支配に対して取らざるを得なかった妥協的姿勢のためかも知れません。

「バルバドス 歴史の散歩道」(その14) 第8部 運命を切り拓いた人たち
(バルバドス議会下院の入口に設置されているコンラッド・リーブスの胸像)

(「第8部 運命を切り拓いた人たち」は次回に続きます。)



(註1)ジョージ・ラミングのこの作品は「私の肌の砦のなかで」というタイトルで日本語の好訳が出版されています(月曜社、吉田裕・訳、2019年)。なお、本稿の中の引用部分は英語原文から筆者(品田)が和訳しました。

(註2)「クラウン・コロニー」の和訳としては、「王冠植民地」「王領植民地」「王領直轄植民地」あるいは単に「直轄植民地」などいろいろあるようですが、本稿では「王室直轄植民地」という訳を用います。

(註3)「ウィンドワード諸島」とは「風上の諸島」という意味で、カリブ海南東部のバルバドスを含む小アンティール諸島のうち貿易風の風上(東側)に位置する島々のことです。
 これに対して、小アンティール諸島の中で、バージン諸島、ネービス、セントキッツ、バーブーダ、アンティグアなど、貿易風の風下(西側)に位置する島々を「リーワード諸島(風下の諸島)」と呼びます。
 この「ウィンドワード諸島」「リーワード諸島」というくくり方は、帆船で航海していた時代は貿易風が重要だったため、船がたどり着く地点を大まかに二分するのが便利だったことから使われるようになった呼称です。
 なお、やや紛らわしいのですが、小アンティール諸島の最南部にあるアルーバ、キュラソー、ボネール(いずれもオランダ領)など、南米大陸のベネズエラ沖に位置する島々を「リーワード・アンティール諸島」と呼ぶことがあります。

(註4)ジョン・ホープ・ヘネシーの日本滞在と彼の本国あて書簡に関しては、「パークス非難論争:条約改正史の一齣」(杉井六郎、1955年、京都大学学術情報リポジトリ)および「香港総督ジョン・ホープ・ヘネシーと大隈重信」(重松優、2006年、早稲田大学社学研論集vol.8)を参考にしました。



(本稿は筆者の個人的な見解をまとめたものであり,筆者が属する組織の見解を示すものではありません。) 

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