「バルバドス 歴史の散歩道」(その11)
第7部 奴隷制廃止への道のり
(コドリントン・カレッジ)
国連が定める多くの国際デーのなかに「奴隷および大西洋奴隷貿易犠牲者追悼デー(3月25日)」という日があります。
2007年にこの国際デーを定めるための国連総会決議案を起草したのはバルバドスをはじめとするカリブ共同体(カリコム)(註1)のメンバー国でした。これらカリブ諸国に共通するのは、いずれもかつての大西洋奴隷貿易によってアフリカから連れてこられた多くの奴隷が存在したという歴史をもつことです。
決議案は同年の12月17日にニューヨーク第62回国連総会において満場一致で可決されました。この決議は国際デーの設置とともに、15世紀から19世紀の間におこなわれた大西洋奴隷貿易の悲惨な結果と教訓を将来の世代に引き継ぐために国連事務総長がユネスコと協力しながら教育的プログラムを創設することなどを内容としています(註2)。
2008年の3月25日、国連経済社会理事会の議場において、この国際デーの記念行事がはじめて開催された時に議長役を務めたのは、当時の国連駐在バルバドス大使、クリストファー・ハケット氏でした。
「奴隷および大西洋奴隷貿易犠牲者追悼デー」がなぜ「3月25日」に定められたのかというと、1807年のこの日にイギリス議会で「奴隷貿易禁止法」が可決されたからです。そのことからも分かるように、この法律の成立は歴史上の画期的な出来事でした。
けれども、前にふれたバルバドス史上最大の奴隷蜂起「バッサの乱」が起きたのは1816年。奴隷貿易禁止法がイギリスで定められ、当然に植民地のバルバドスでも適用されることになってから9年後のことです。ということは、この法律ができたあとも、すでに奴隷にされていた人々の境遇には大きな変化がなかったということを物語っています。
そもそもこの法律は奴隷の“貿易“を禁止しただけであって、イギリスと植民地での奴隷制そのものの廃止は1833年を待たなければなりませんでした。実際、バルバドスではバッサの乱のあと、支配層白人のあいだからは「本国イギリスがこんなロクでもない法律を作るから奴隷たちが図に乗ったのだ」という逆ギレ気味の声があがりました。
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<イギリスで奴隷貿易禁止法ができるまで>
言うまでもなく、バルバドス植民地の奴隷制は宗主国イギリス国内の状況や法制度と密接に連動していました。
大西洋奴隷貿易を国家事業として行っていたイギリスにおいて、非人間的な奴隷制に異議を唱えた先駆者となったのは、プロテスタントの一派であるクエーカー派(キリスト友会)の開祖、ジョージ・フォックス(1624−1691年)という人でした。
質素な暮らしや平等主義で知られるクエーカー派は現在ではイギリス、アメリカを中心に約60万人の信徒がいると言われますが、創始者フォックスは1671年の一時期、教義普及のためにバルバドスに滞在していたことがあります。
彼は島で黒人奴隷の待遇改善を訴え「奴隷にも福音が伝えられるべきであり、いずれかの時期には奴隷に自由が与えられるべきだ」と説いて回りました。
しかし考えてもみてください。この17世紀後半というのは、まさにこの島で製糖業が急速に発展し、奴隷がいくらいても足りないという時代だったのです。白人支配層には、奴隷の自由はおろか待遇改善などという発想をもつ人もほぼ皆無でした。フォックスは、奴隷労働で成り立っている島に乗り込んでいって奴隷制に異議をとなえたのです。
バルバドスの保守層、プランテーション領主たちの大多数はイギリス国教会に属していました。フォックスの言説は、クエーカー派を異端視する彼らの神経を逆撫でしてしまいます。彼は奴隷反乱をあおる危険人物だというレッテルを貼られバルバドスでの伝道活動はさまざまな妨害にあって思うにまかせず、島からの撤去を余儀なくされました。
もっとも、このころはイギリス本国や北米植民地のクエーカー教徒のなかにも奴隷所有者がたくさんいて、教派の内部ですら奴隷制を擁護する声が根強かったのです。奴隷制を害悪とするフォックスの考え方がクエーカー派全体に浸透するのには、かなりの歳月が必要でした。
クエーカー派が、教団から奴隷所有者や奴隷貿易従事者を追放することを正式に決定したのは、創始者フォックスのバルバドス滞在から100年近くあと、ようやく1760年代になってからのことです。
ちょうどその頃、クエーカー派とは別のところでも新しい動きが見られるようになります。
1765年のある日、ロンドンの路上でグランビル・シャープという下級官吏が、血まみれになって倒れている一人の黒人を見つけました。同情したシャープはこの男を助けて病院に運び込みます。黒人はバルバドスから連れてこられたジョナサン・ストロングという名の奴隷で、彼の働きぶりに不満だった「所有主」のデイビッド・ライルという男からひどい暴行を受けて路上に放り出されたのだということがあとで分かります。
ストロングが回復するのには数ヶ月かかりました。この間、シャープとその同調者たちは病院の費用を負担するなどして熱心にストロングの面倒をみていたのです。
ところが、怪我がなおったストロングは元「所有主」のライルに見つかってしまいます。ライルはストロングを捕まえると今度は彼をジャマイカに売り飛ばそうとしました。これを知ったシャープは「いったんイギリスに連れて来られたストロングは、もはや奴隷ではない」という申し立てをして裁判を起こしました。
数年間の法廷闘争の結果、ストロングは解放されはしたものの、ロンドンの行政当局は「西インド諸島から連れて来られた奴隷はイギリスに着いても奴隷という地位に変化はない」という見解を示したのです。
この経験をへて、シャープは奴隷制廃止主義者(アボリショニスト)としての活動を本格的に始めることになります。
1771年には別の事件が起きました。北米バージニアからロンドンに運ばれた奴隷、ジェームズ・サマーセットが「所有主」のチャールズ・ステュアートのもとから逃亡。ステュアートはサマーセットを捕らえると、彼をジャマイカ行きの船内に拘禁しプランテーションに売ろうとします。
シャープら奴隷制廃止主義者のグループは、拘禁の違法性を主張しサマーセットの解放を求める訴訟を起こしました。
このとき高等法院で主席判事をつとめたのはマンスフィールド卿ウィリアム・マレーという人物でした。マンスフィールド卿は「イギリス法のなかには奴隷制の根拠を見出すことができない」という判決をくだし、サマーセットは自由の身となりました。「サマーセット事件」と呼ばれたこの裁判の判決は、司法の側面からイギリス奴隷制の一画を崩す判例として後世に知られるようになりました。
奴隷貿易禁止法案がはじめてイギリス議会に提出されたのは1791年のことです。法案提出の中心人物となったのは、福音主義者で下院(庶民院)議員だったウィリアム・ウィルバーフォース(1759〜1833年)でした。
最初の法案は大差で否決されています。奴隷貿易によって富を得ていた植民地プランテーションの経営者や不在地主、奴隷船の船主、造船業界などが法案に反対する強力な圧力団体になっていたためです。
バルバドスにプランテーションを持っていたヘンリー・ラセルスという富豪などは「議会におけるウィルバーフォースの議席を奪えるなら自分は土地・財産を犠牲にしてもかまわない」と宣言して、わざわざウィルバーフォースと同じ選挙区から立候補するということまでしています(選挙結果はウィルバーフォースの勝ちでしたが)。
非人道的な奴隷貿易をこれ以上放置することは許されないと考えていたウィルバーフォースは、何度否決されてもめげずに法案を提出し、ねばり強く議会内での説得を続けました。
そして最初の法案提出から16年後の1807年3月25日に「奴隷貿易禁止法案」がようやくイギリス議会を通過したのでした。
(ジョージ・フォックス)
(ウィリアム・ウィルバーフォース)
プランテーションの奴隷労働に支えられる砂糖とラム酒の製造・輸出で暮らしていたバルバドスにも、奴隷制に異議を唱える動きがなかったわけではありません。
そのひとつは「イギリス海外福音伝道会」の活動でした。伝道会はイギリス国教会が海外での宣教のために設立した団体で「異民族・異教徒への布教」を大きな目的としていました(註3)。
伝道会の宣教師は18世紀初め頃からバルバドスの黒人奴隷たちにも洗礼を受けさせてキリスト教徒にするための活動をおこなうようになりました。ところがここで矛盾が起きます。奴隷のキリスト教化が、「自分たち(白人)と同じキリスト教徒になった黒人を奴隷として酷使するのは神の教えに反するのではないか」という発想につながりかねないことに気づく人たちが出てきたのです。言っていることとやっていることの辻褄が合わなくなるおそれが生じたわけです。
「いや、そうは言っても白人と黒人は別だよ」と思っていたバルバドス支配層の多くにとっては伝道会の動きはいたって迷惑なものでした。伝道会の活動への抵抗は大きく、島での奴隷への教化活動は長い間なかなか思うにまかせなかったようです。
しかし興味深いことに、バルバドスでのイギリス海外福音伝道会の活動の財源が、島でも有数の大プランテーション領主で何百人という奴隷の所有者であった人物によって支えられていたことがあるのです。この人物の名をクリストファー・コドリントン(1668〜1710年)といいます。
広大な砂糖キビ・プランテーションを父親から受け継いだコドリントンは生まれついての富豪であったばかりでなく、宗主国のオクスフォード大学に留学し、また蔵書家としても知られたインテリで、当時のバルバドス社会ではエリート中のエリートといってよい人物でした。
コドリントンはこういう典型的なプランテーション貴族だったので、声高に奴隷制に異議を唱えていたわけではありません。しかし彼は生前に、貧民、有色人種や奴隷をキリスト教化し教育を与えることを目的としてその莫大な遺産の大半を伝道会に託すという遺言をのこしていたのでした。
彼の没後、伝道会は遺産をもとに1715年に学校の建設を始め、この結果「コドリントン・グラマースクール」という中等教育の学校が作られました。
ところが、この学校が開校したのは建設開始から30年もあとの1745年だったのです。
なぜ初等教育ではなく中等教育の学校なのか、しかもどうしてそんなに時間がかかったのかと筆者は不思議に思い、あれこれ調べてみました。
しかし、バルバドスのどの歴史の本を見てもこの件については奥歯にものがはさまったような記述が多くて、どうもはっきりしない。ただ、行間から察するに、どうやら有色人種や奴隷の教化・教育のための学校を伝道会が率先して作ることに対しては島の保守層からの反対の声が相当強かったようだということが分かってきました。グラマースクールが当初は白人子弟のみの学校として開校したのはそのためではないかと考えられるのです。
莫大な遺産を託された伝道会と島の保守派のあいだにはおそらくさまざまなやり取りがあったのだと思われます。結局、コドリントンの遺志のとおりにはならなかったものの、島の支配階級の代表格のようなこの人物が、この時代の社会常識とは相容れない、奴隷や有色人種の福祉向上という考え方を持っていたことは注目に値することと言えるでしょう。
コドリントンが生きたのは、バルバドス植民地で「奴隷を殺した者には15ポンドの罰金」という法律が堂々とまかり通っている時代でした。また宗主国イギリスにおいてすら奴隷制に反対する声が広がりをみせる前だったのです。
コドリントンは生涯独身だったのですが、いろいろ大人の事情でモードリン・モランジュという黒人女性とのあいだに息子をもうけていました。ウィリアムという名の混血の息子は、父が世を去ったあと遺産の一部を継いでジャマイカでプランテーション領主になっています。
こういう事情があったコドリントンは、大プランテーション領主にして多くの奴隷の所有者、そしてバルバドス屈指のエスタブリッシュメントという立場上、生前に表立って奴隷制に異議を唱えることはできなかったものの、せめて遺産を伝道会の活動に役立たせようと考えたのではないでしょうか。
彼の死後、亡骸はイギリスまで運ばれて母校オクスフォード大学オールソウルズ・カレッジのチャペルにおさめられました。膨大な蔵書はオールソウルズ・カレッジに寄贈され、これをもとに「クリストファー・コドリントン図書館」が建てられました。図書館の内部にはコドリントンの等身大の像までが置かれ、彼が宗主国でも一流の名士としての地位を確立していたことがうかがわれます。
時が経ってコドリントンの死から300年。今世紀に入ったころから、彼の富が奴隷労働によって築かれたことが問題視されるようになります。そして2021年1月、とうとう大学当局は図書館の名称から「コドリントン」の名を消し去るという決定を下さざるを得なくなりました。そのかわりに図書館の入口には「西インド諸島のコドリントン・プランテーションにおいて奴隷として働いた人々を記憶して」という碑文が設置されたのでした。
いっぽう、彼の遺産で18世紀にバルバドスに建てられたコドリントン・グラマースクールは、その後、非白人の子弟にも門戸を開くイギリス国教会の神学校に改組されました。これが、西半球のイギリス植民地における最古の高等神学校のひとつ「コドリントン・カレッジ」です。
この学校は、変遷を経て現在では西インド諸島大学ケーブヒル校附設の神学部となっています(註4)。島の東岸、セントジョン教区の高台から大西洋を望んで建つコドリントン・カレッジの荘厳な建物と静謐なキャンパスは、筆者にとりバルバドスの中でも最も美しい場所のひとつです(註5)。
(クリストファー・コドリントン)
クリストファー・コドリントンのあと、バルバドスにはジョン・ゲイ・アレイン(1724〜1801年)という人物が出ています。
アレインもコドリントンと同じく裕福なプランテーション領主でした。彼は、長年にわたりバルバドス植民地議会の議員をつとめ、下院議長にまでのぼりつめた、いわば島の白人支配層の代表的な人物でした。しかし開明的な考え方の持ち主だったアレインは、そのころイギリスで広まりつつあった奴隷制懐疑論に影響を受けるようになります。
彼はまず、白人貧困層や自由民となった有色人種(多くの場合、白人の父親と黒人の母親を持つ混血)の待遇改善を訴え、彼らの子供のために島の北東部、セントアンドリュー教区に私財を投じて神学校を設立しました(註6)。
アレインの慈善活動の対象はしだいに黒人奴隷の子供にもおよぶようになりました。ところが、これをこころよく思わない保守勢力から非難の声が上がるようになります。これに対してアレインは議会での演説で「奴隷制は私たちが人間として果たすべき義務にとって大きな負い目となる不幸な制度である」という有名な言葉をのこしています。
アレインは、最初の妻クリステンに先立たれたあと、62歳の時にいとこに当たる40歳年下のジェインと再婚し、彼女とのあいだに息子2人、娘5人をもうけました。たいそう頑張り屋だった彼には商才もあったらしく、自分のプランテーション経営や議員活動をおこなうほか、友人のジョン・ソバーという男がやっていた「マウント・ギルボア酒造」というラム酒蒸溜所の運営を手伝って経営状態をおおいに改善したことがあります。
これに感謝し、またアレインの人柄を慕っていたソバーは、アレインの死後、酒造の呼称を彼のミドルネームをとって「マウント・ゲイ」と改称しました。マウント・ゲイのラム酒は世界現存最古のラム酒銘柄として今もバルバドスで作られています。
さて、こうしたアレインや前出のコドリントンの足跡をみると、バルバドスで奴隷を使役していたプランテーション領主といえども、皆が皆、血も涙もない強欲者ばかりだったわけではないということが分かります。彼らのプランテーションでは、奴隷の扱いも他に比べればおそらくはずっとましだったのでしょう。
いっぽうで「プランテーションで奴隷を働かせ富を得ていながら奴隷の待遇向上を唱えたプランテーション貴族、コドリントンやアレインのしたことは単なる偽善にすぎない」とする見方がないわけではありません。
しかし、その時代のバルバドスは、奴隷貿易と奴隷労働なしでは成り立たない砂糖産業のみで生きるモノカルチャー経済の島だったのです。収益を上げるために奴隷を酷使することが当然視され、「奴隷に読み書きを教えて知恵をつけるなどもってのほか」といった考え方が支配的でした。
コドリントン、アレインがしたことは、今から見ればしょせんは慈善事業の域を出ないものかもしれません。でもこれ以上のことをするには時代が早すぎたのです。まして宗主国から遠く離れたカリブ海に浮かび砂糖キビしかないこの小さな島には、啓蒙思想に根ざした自由、平等、人権などといった発想の担い手となる中産・知識階級はほとんど存在していませんでした。
そういう時代のバルバドスに生まれたコドリントンやアレインが仮にプランテーションを手放して奴隷解放を叫んだところで誰にも相手にされなかったでしょう。彼らは自分の時代において現実にできることに誠実に取り組んだのではないでしょうか。
(ジョン・ゲイ・アレイン)
(註1)カリブ共同体(カリビアン・コミュニティー、略称:カリコム)は、1973年のチャガラマス条約により設立されたカリブ諸国の地域機構。原加盟国はバルバドス、ガイアナ、ジャマイカ、トリニダード・トバゴでしたが、その後、加盟国が増え、現在では14ヵ国・1地域が参加。域内の経済統合を目指し、加盟国間の外交政策の調整、保健医療・教育・文化面などにおける協力を推進しています。
(註2)奴隷貿易に関する国際デーとしては、このほか1998年にユネスコが制定した「奴隷貿易とその廃止を記念する国際デー(8月23日)」があります。この国際デーが8月23日と定められたのは、ハイチ独立につながることとなった奴隷蜂起が1791年のこの日にフランス植民地サンドマングで始まったことによります。
(註3)「異民族・異教徒への布教」を目的とするイギリス海外福音伝導会は、明治期の日本へも東京、神戸に宣教師を派遣していました。
(註4)西インド諸島大学は1948年に発足した、西インド諸島の18の英語国・地域が共同運営する公立大学。バルバドスにケーブヒル校、ジャマイカにモナ校、トリニダード・トバゴにセントオーガスティン校、アンティグア・バーブーダにファイブアイランズ校と、学部や研究施設ごとに分散したキャンパスをもっています。
(註5)現在、バルバドスには「コドリントン・スクール」という、在留邦人の子弟も通うインターナショナルスクールがありますが、こちらは1917年に発足した「コドリントン寄宿学校」に端を発する学校で「コドリントン・カレッジ」とは別系統の学校です。
(註6)アレインが設立した神学校は、のちに中等教育をおこなう男子校「アレイン・スクール」に改組され、1947年にはバルバドスで最初の男女共学の公立校となり現在に至っています。
(本稿は筆者の個人的な見解をまとめたものであり,筆者が属する組織の見解を示すものではありません。)
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