一般財団法人 国際協力推進協会
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「バルバドス 歴史の散歩道」(その8)


 第5部 砂糖、ラム酒、そして奴隷(続き)

寄稿:前・駐バルバドス日本国大使 品田 光彦
「バルバドス 歴史の散歩道」(その8) 第5部 砂糖、ラム酒、そして奴隷(続き)
(プランテーション貴族の居館:バルバドス島北部のセント・ピーター教区にあるこの「セント・ニコラス・アビー」は1660年頃に建てられました。現在は敷地内のラム酒製造所と共に一部が観光客に公開されています)

<プランテーション貴族の出現>

 奴隷労働に支えられた砂糖産業によって、バルバドス植民地の開拓は急速に進んでいきました。

 1660年ごろには、密林のほとんどは砂糖キビ畑になり、島全体がおおかた現在と変わらない姿になっていたといわれます。開拓のスピードがこれほど早かった理由としては、カリブの他の多くの島と異なりバルバドスには険しい山岳地帯がなく、平地か、せいぜいなだらかな丘陵が広がっている地形なので開墾が容易だったということが挙げられます。また、こういう地形の小さな島ではたくさんの奴隷を管理・監督することもあまり難しくはなかったし、過酷な労働現場から奴隷が逃げる場所も限られていました(註1)。

 砂糖の輸出が順調に伸びた17世紀後半の一時期、バルバドスはカリブのイギリス植民地の中で最も栄える島になりました。バルバドスは「リトル・イングランド」と呼ばれ、砂糖の積み出し港を擁する首邑ブリッジタウンにはイギリス風の建物や砂糖倉庫、商店が軒をならべるようになっていきました。

 カリブの多くの島々が砂糖生産に特化するようになった事象を指して「砂糖革命」と呼ぶことがあります。この砂糖革命を最初に経験した島、バルバドスのプランテーション領主のなかには巨万の富を手にする者があらわれ、「プラントクラット(プランテーション貴族)」と呼ばれるようになります。こういった成功者たちは、大プランテーションに数百人の奴隷をかかえ、立派な邸宅を建てて贅沢な暮らしをするようになりました。故国イギリスに凱旋帰国旅行をしたり、子弟にイギリスで高等教育を受けさせたりもするようになります。

 島の経済発展は、白人支配層の間での階層分化の原因にもなりました。リチャード・ライゴンという人物が1657年に残した記録によれば、砂糖輸出が本格化するすこし前、1645年の時点でバルバドスには3万6600人の白人がおり、1万1100人の小土地所有者がいたとされます。しかしその後、砂糖キビ・プランテーションの拡張による土地の囲い込みで大土地所有が幅を利かせるようになると状況が一変。後年の記録では、1667年には745家族が島の土地の大部分を所有。そして1680年以降の100年間は、100家族に満たない地主が島の半分以上を所有するようになりました。

 階層分化は17世紀後半の一時期、バルバドスからの白人人口の流出につながりました。砂糖革命に乗り遅れて困窮するようになった小規模農民や、年季があけても土地やまともな仕事にありつけない年季奉公人が多く生じたためです。彼らは、新天地を求めてジャマイカ、スリナムなどカリブの他の地域やカロライナ、バージニア、ニューイングランドといった北米のイギリス植民地に流れていきました(註2)。島ではこうして、圧倒的多数を占める黒人奴隷の上に少数の白人支配層が君臨するという人口構成が形作られていったのです。

「バルバドス 歴史の散歩道」(その8) 第5部 砂糖、ラム酒、そして奴隷(続き)
(砂糖キビ・プランテーションで使役される奴隷たち)

<イギリスによる奴隷貿易独占>

 プランテーションではますます多くの黒人奴隷が必要となっていきました。けれども、17世紀末から18世紀にかけて、イギリスは他の国々を押しのけて大西洋奴隷貿易を独占するようになります。おかげでバルバドスのプランテーション貴族たちが労働力不足に悩むことはありませんでした。

 1672年、イギリス国王チャールズ2世の認可でロンドンに「王立アフリカ会社」という組織が設立されました。初代総裁は、チャールズ2世の弟で後に国王ジェームズ2世となるヨーク公でした。この会社が何をやっていたかというと、西アフリカから北米・カリブへの奴隷供給が主要事業だったのです。設立されてから30年の間に、この会社によってアフリカから拉致された奴隷は10万人を超えたと考えられています。王立アフリカ会社は、イギリスの国家事業としての奴隷貿易を独占的に担う国営専門商社だったのです(註3)。

 自国から綿製品などを西アフリカに運んで奴隷と交換し、彼らを新大陸やカリブに運び、そこから砂糖、ラム酒、綿花を自国にもって帰るという三角貿易からあがる収益は莫大なものでした。これによって、それまではヨーロッパのミドルパワーに過ぎなかったイギリスの国力は増し、一流国の仲間入りを果たします。

 あのビートルズ発祥の地、リバプールは、奴隷貿易の華やかなりし頃、奴隷船の建造、発着で栄えました。サッカーチームで有名なマンチェスターは、アフリカで奴隷と交換する綿製品の生産で発展した都市です。そして奴隷制度という徹底した搾取で生み出された富は首都ロンドンに集まり、のちの世界都市としての基礎が形作られていきます。

 いっぽう、一時期は奴隷貿易でイギリスに先んじていたオランダですが、イギリスが1651年に導入した航海法(本稿第3部「ピューリタン革命の荒波」参照)をきっかけに海上覇権を巡って起きた英蘭戦争(1652−54、65−67、72−74年)に敗れ、しだいに制海権を失っていきます。

 このあと、カリブの舞台でイギリスの前に立ちはだかることになったのはブルボン朝のフランスでした。念のために言っておきますと、奴隷貿易でアコギに稼いでいたのはべつにイギリスだけではなく、フランスも同じです。カリブではイスパニョーラ島の西半分をスペインから奪ってサン・ドマング(のちのハイチ)を植民地にしたフランスは、他にもグアドループ島、マルティニーク島などを自国領としましたが、本国のボルドー、ナント、ルアーブルといった諸都市は奴隷貿易のおかげで発展した都市です(註4)。

 さて、イギリスによる大西洋奴隷貿易独占の仕上げは、スペイン継承戦争(1701ー1714年)でした。

 国力が衰えつつあったスペインではハプスブルグ朝が1700年に断絶。隣国フランスの「太陽王」ルイ14世が血縁を利用して自分の孫をスペイン王として押し込みます。これに対しイギリス、オランダ、プロイセン、オーストリアなどが介入してスペイン継承戦争が起きました。結果、勝ち組となったイギリスは戦後のユトレヒト条約で海外領土をおおいに拡大します。イギリスは、この時の付帯条約でアフリカ奴隷を新大陸のスペイン植民地に運ぶ権利(アシエント)をも獲得し、奴隷貿易の利益を独占するようになったのでした。

 また、スペイン継承戦争中の1707年には、イングランド王国とスコットランド王国が一つの王国に統合されて「グレートブリテン連合王国」となり、イギリスはのちの世界帝国ーー大英帝国への大きな一歩を進めました。

<港に着いた奴隷たち>

 話をバルバドスに戻しましょう。

 家畜同然にアフリカで奴隷船に積み込まれ、生きてバルバドスにたどり着いた黒人たちは、ブリッジタウン港の奴隷市場で、鎖につながれて並べられました。ここで買取り業者たちの品定めが始まります。丈夫そうに見せるため、奴隷たちの体には油が塗られ、買い手は、筋肉のつき具合を確かめるため体に触ったり、歯並びを見て健康状態を判断したりと、「不良品」をつかまないようにしながら値をつけていきました。

 バルバドスはカリブの島々の中でも最も東に位置しているーーつまりアフリカから一番近いのでーー奴隷貿易のハブにもなっており、ここから他の島に「再輸出」される奴隷も多かったといわれます。

 プランテーションに売られた奴隷には、前に触れたような苛酷な日々が待ち受けていました。逃げ出したり暴れたりしたくなるのも無理はありません。けれども、逃亡奴隷が捕まると、ムチ打ち、焼き印、脚の腱の切断、最悪の場合には死罪が待っていました。

 こうした処罰は、ほかの奴隷たちが見ている前で行われました。痛い思いをするのはひとりだけでも、見ているほうには恐怖心が植え付けられるので「抑止効果」は十分。奴隷たちは震え上がって反抗する気力を失い「こいつら(白人たち)には服従せざるを得ない」という心境になったはずです。

 白人支配層が、何倍もの数の黒人奴隷たちを服従させるために用いたのは、ありがたい「聖書の教え」などではなく、またそのころイギリスに始まりヨーロッパで流行りだした「啓蒙思想」でもなく、単なる暴力による恐怖支配でした。西欧文明が外の世界に対し必要に応じて繰り出すこの得意ワザーー偽善的な二重基準(ダブル・スタンダード)ーーは、その後の世界史上でもしばしば見ることができます。

「バルバドス 歴史の散歩道」(その8) 第5部 砂糖、ラム酒、そして奴隷(続き)
(現在のブリッジタウン港:カリブ海周遊クルーズ船が停泊するこの港は、かつて奴隷船の発着や砂糖やラム酒の輸出のために使われていました)

<奴隷たちの反抗>

 このような圧制にもかかわらず、早くも1675年にはバルバドスで最初の奴隷蜂起が起きています。いや正確にいうと、起きかかりました。

 この事件は、蜂起計画の首謀者となったカフィという名の奴隷にちなんで「カフィの陰謀」と呼ばれています。事件の翌年にロンドンで発行された小冊子に、ことの経緯がしるされています。

 ーーカフィは西アフリカにあったアシャンティ王国(筆者註:現在のガーナ内陸部)の出身だった。彼のまわりに集まったアシャンティ出身の奴隷たちは、この年の6月12日、ホラ貝の音と砂糖キビ畑への放火を合図に蜂起することを計画した。その計画とは、プランテーション領主たちを殺害し、白人女性をさらって、「カフィの王国」をうち建てることであった。ところが、この陰謀は、ひとりの女奴隷がプランテーションの主人に密告したことで発覚。知らせはただちにジョナサン・アトキンス総督に伝えられた。謀議に加わった者たちは一網打尽にされ、そのうち17人が処刑された。6人は火あぶりの刑、11人は首をはねられたのである。彼らの遺体はスパイツタウンの市中を引き回しにされた。密告した女奴隷は、褒美として自由民の身分を与えられた。ーー

 バルバドスではこのあと、1696年と1702年に小規模な奴隷蜂起が起きたのですが、その後100年以上の間はこれといった事件は記録されていません。

「バルバドス 歴史の散歩道」(その8) 第5部 砂糖、ラム酒、そして奴隷(続き)
(現在のスパイツタウン:「カフィーの陰謀」の首謀者たちが処刑されたあと、遺体はこの町の中を引き回しにされました)

<バッサの乱>

 最後にして最大の反乱が起きたのは1816年のことでした。バルバドス人なら誰でも知っている「バッサの乱」です。

 反乱の中心人物となったバッサという名の奴隷は、島の南東部、セント・フィリップ教区にあった、ベイリー家という白人家族が所有するプランテーションで働いていました。彼は奴隷のなかでは比較的恵まれた地位である「レンジャー」と呼ばれるプランテーションの警備担当者でした。そのために移動がわりあい自由にできたことが、仲間との事前の連絡や相談に好都合だったと考えられています。

 彼の一番の相棒はフランクリン・ワシントンという男でした。反乱成功のあかつきにはフランクリンがバルバドスの総督になるという手はずだったことをみると、バッサが軍事部門担当、フランクリンが政治部門担当という役割分担ができていたようです。フランクリンは、「ムラート」と呼ばれる、黒人と白人のハーフで、自由民の身分をもっていました。

 このふたりに数人を加えた「反乱部隊幹部会」は、2ヶ月のあいだ入念に密議を重ね、島内各地の奴隷たちに協力と、指示への服従を呼びかけました。反乱の中核になったのは男女の奴隷合わせておよそ4百人。そのほとんどはクレオール、すなわちバルバドスで生まれ育った第2世代以降の奴隷たちでした。

 支配層白人たちの警戒がゆるんだ4月14日、復活祭の日曜日の夜8時、ベイリー・プランテーションへの放火を合図に蜂起が開始されました。暴動は周辺の教区にまたたく間に拡大し、島の南半分が混乱状態に陥りました。当時の島の奴隷総数である約7万7千人のうち、3千〜4千人が暴動に加わったといわれます。

 深夜、ブリッジタウンに砲声がとどろき植民地当局により全島に戒厳令が発出されました。ただちに民兵組織(ミリシア)と植民地駐屯イギリス軍によって4千人規模の合同部隊が結成されます。反乱鎮圧の指揮を取ったのはエドワード・コッブという大佐でした。

 バッサとその仲間たちは周到な準備をしたつもりだったのしょう。しかし、豊富な武器を持ち訓練も十分な正規軍を前にしてはひとたまりもありません。反乱は4日後までにはあえなく鎮圧されてしまいました。

 反乱後しばらく経ってバルバドス議会下院に設けられた調査委員会で、鎮圧部隊の士官のひとりが次のように証言したという記録が残されています。

 「暴徒と化した奴隷の集団に遭遇したのは夜中2時ごろだった。そのうちの何人かはマスケット銃を持っていた。セント・フィリップ教区の民兵隊から奪った旗を持っている者もいた。奴隷たちは、我々の小隊を見つけると、挑発して『かかってきやがれ!』と叫び声をあげた。だが我々が発砲すると、すぐに散り散りになって逃げ出した」ーーこんな具合だったのです。

 この反乱によって広範囲の砂糖キビ畑が焼かれ、その年の収穫の五分の一が失われました。奴隷の側はバッサをふくめて176人が討ち死に。捕らえられた者のうち214人が処刑され、フランクリンもそのうちの一人でした。白人側の死者は民兵隊の兵卒1人でした。

 バッサの乱は失敗に終わりました。けれども、反乱鎮圧後も戒厳令が3ヶ月ものあいだ維持されたことは、この事件が白人社会に与えた衝撃の大きさを示しています。いっぽう黒人のあいだでは、バッサは伝説的な人物となり、彼が率いた蜂起は長く語り継がれていくことになります。

 時代がくだり、バルバドスが黒人主導の国家としてイギリスから独立(1966年)したあと、1985年には島中心部のハガットホールという場所に、両腕をつなぐ鎖を引きちぎって立ち上がるバッサをイメージした像(解放記念像)が建てられました。1998年にはバルバドス議会により、彼は10人の「バルバドス国民英雄」のひとりに叙せられました。バッサは、バルバドス人にとって、過酷だった奴隷支配への抵抗を象徴する人物なのです。

「バルバドス 歴史の散歩道」(その8) 第5部 砂糖、ラム酒、そして奴隷(続き)
(1816年の反乱のリーダー、バッサをイメージした「解放記念像」)

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 奴隷たちがアフリカからの数ヶ月の航海を経て、再び土を踏んだブリッジタウン港。現在はカリブ海を周遊する豪華クルーズ船の発着港になっています。

 「サンベリー・プランテーション・グレートハウス」は、この港から東に15kmほど行ったところにあります。かつてのバッサの乱の主戦場からもほど近いこの建物は、1660年代にマシュー・チャップマンというイギリス人入植者によって建てられました。広大な砂糖キビ・プランテーションを拓き、多くの奴隷を保有したチャップマンは、家族用の住居としてこの二階建てのプランテーション・ハウスを建てたのです。

 「サンベリー・・」は、その後何度も所有者を変え、ハリケーンや火事による損傷を受けるたびに改修が繰り返されました。しかし、300年以上を経た現在でも創建当時のコロニアル建築の姿をよく残しており、植民地時代のプランテーション・ハウスとしては島内で唯一、全室が一般公開されている施設となっています。

 マホガニー林と砂糖キビ畑に囲まれたこの屋敷の外壁の厚さは60cmあって、絶妙に配置された窓から入る貿易風で、バルバドスの強烈な日差しの下でも邸内は過ごしやすい気温が保たれるようになっています。宗主国イギリスから運ばれた重厚な家具や調度品、接客用の豪華なダイニングルームなどは、砂糖革命時代のプランテーション貴族の暮らしぶりを偲ばせてくれます。

 主人の家はこのようにしっかりと残っているのですが、プランテーションで働いていた多くの奴隷たちの生活の跡は残念ながらほとんど残っていません。

 その当時、どこのプランテーションでも、奴隷たちは「チャテル・ハウス」と呼ばれる木造の粗末な小屋に住んでいました。砂糖キビは土壌を疲弊させる作物なので、頻繁に休耕地を設定する必要があります。それで奴隷たちの居住区域はしょっちゅうプランテーション内を移動していました。その際に住処ごと簡単に引越しができるよう、奴隷たちの家は、釘を使わずに組み立てることができる木の小屋を石の土台の上にのっけて作られていたのです。それでチャテル・ハウス、つまり「動産=移動可能な家」と呼ばれたわけです。現代のプレハブ住宅のはしりのような物と言えば聞こえはいいのですが、ハリケーンでも来れば簡単に吹き飛ばされるというシロモノでした。ですから、奴隷たちの暮らしぶりが分かるような建築物が残っていないのも無理からぬことです。

 とはいえ「サンベリー・・」には奴隷たちが使っていた建物がひとつだけ残っています。それは、奴隷たちが神に祈りを捧げた小さな教会です。

 バルバドスでは、18世紀初め頃から奴隷のキリスト教化が始められました。ですが、もちろん白人たちと同じ教会に足を踏み入れることは奴隷たちには許されません。そこで奴隷専用の教会が建てられたのです。

 入口の十字架に気付かなければ教会だとは判らないようなその質素な建物は、立派なサンベリー・プランテーション・グレートハウスのすぐ脇に、今もひっそりと建っています。

(第6部 「東カリブの要塞島」に続く)


「バルバドス 歴史の散歩道」(その8) 第5部 砂糖、ラム酒、そして奴隷(続き)
(サンベリー・プランテーション・グレートハウスの外観)

「バルバドス 歴史の散歩道」(その8) 第5部 砂糖、ラム酒、そして奴隷(続き)
(サンベリー・プランテーション・グレートハウス内の接客用食堂:プランテーション貴族の贅沢な暮らしをうかがうことができます)

(註1)バルバドスのこのような状況は、たとえばバルバドスよりずっと広くて山岳地帯も多いジャマイカとは対照的でした。ジャマイカでは、多くの逃亡奴隷が山中に立て籠もって、長期にわたり奴隷支配への抵抗を続けました。「マルーン」と呼ばれた彼らは、(現在ではコーヒー産地として有名な)ブルーマウンテン地域などに拠点を築き、プランテーションを襲って収穫や家畜を奪ったり、他の奴隷の逃亡を助けたりしました。バルバドスでは、奴隷によるこういった長期間の組織的抵抗活動は生じませんでした。

(註2)17世紀半ば、バルバドスからジャマイカに移って海賊になり、のちにジャマイカの副総督にまで出世したヘンリー・モーガンも、バルバドスでの年季奉公あけに食いっぱぐれて流出した組のひとりでした。(本稿第4部 「海賊たちの系譜(続き)」参照)

(註3)王立アフリカ会社設立から30年後には民間業者も奴隷貿易に参入することが許可されます。民間業者には利益の一割を税として納める義務が課せられていました。人買い商人から国(王室)が「みかじめ料」を取り立てていたわけです。

(註4)国策として奴隷貿易に手を染めていたのはイギリス、フランス、オランダにとどまらずスウェーデン、デンマーク、プロイセンも17世紀に奴隷貿易の特許会社を設立し、列強諸国のおこぼれにあずかっていました。



(本稿は筆者の個人的な見解をまとめたものであり,筆者が属する組織の見解を示すものではありません。) 

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