一般財団法人 国際協力推進協会
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「バルバドス 歴史の散歩道」(その7)


 第5部 砂糖、ラム酒、そして奴隷

寄稿:前・駐バルバドス日本国大使 品田 光彦

(本稿には現代の基準に照らすと差別的、不適切な表現が含まれていますが、いずれも過去の史料・文献の翻訳部分です。これらの箇所は筆者自身の見解ではなく、当時の社会状況を知るためには正確に訳すことが必要と考えたからであることをご理解下さい。)


 筆者がバルバドスに住むようになってから好きになったもののひとつにラム酒があります。

 でも、世界中のアルコール飲料が手に入る日本で、残念なことになぜかラム酒はそれほどポピュラーではないようです。それどころか、日本でラム酒の話をすると「ああ、お菓子作りなんかに使う、あの甘いお酒ね」などという怪しからぬ反応が返ってくることが多い。あなたがストレートで飲んだラム酒がもし甘かったとしたら、それは「まがいもの」です。

 バルバドスをはじめとするカリブ諸国で作られ世界中に輸出されている「本場もの」のラム酒は、砂糖キビから砂糖を精製する過程でできる糖蜜(モラセス)を発酵・蒸留・熟成して作られる、かなりアルコール度数の高い飲み物です(註1)。ただし、砂糖キビから作られると言っても決して甘くはありません。上質のブランデーを思わせるような芳醇な味と香りで、ストレートでもよし、オンザロックや水割りにしてもよし。モヒートやダイキリといったカクテルにも欠かせません。また、フルーツベースのよく冷えたラムパンチはカリブの暑さをしのぎながらホロ酔い気分になるには最適な飲み物かもしれません(ただし口当たりのよいラムパンチを調子に乗って飲み過ぎると、必ずあとで反省することになります)。

 ラム酒が作られるようになったのは、カリブの一部の島々で砂糖キビの栽培がはじまった16世紀後半ごろだと考えられています。「ラム酒作り発祥の地はバルバドスである」という人もいるのですが、ほかにもいろいろな説があるので確かなことは分かりません。ただはっきりしているのは、現在は世界各地で作られているラム酒の中で、「マウント・ゲイ」というバルバドスの銘柄が18世紀初頭から操業を続ける現存世界最古のラム酒蒸溜所で作られ続けているということです。

 バルバドスに5年半暮らした筆者は、その間ラム酒にたいそうお世話になりました。2022年4月、筆者がバルバドスでの任期を終えて日本に帰る数日前に、ミア・モトリー首相が「あなたがこれ好きなの知ってるわよ」と言って、わざわざ筆者の家まで届けさせてくれたお土産も「マウント・ゲイ」のラム酒だったのでした。

 こんなふうに今ではカリブでの余暇や社交に欠くことのできないアイテムになっているラム酒ですが、このお酒には悲しい過去があります。

 ―――昔、砂糖キビプランテーションの主な労働力が黒人奴隷だった頃、ラム酒は奴隷たちの血と汗と涙の結晶だったのです。

「バルバドス 歴史の散歩道」(その7) 第5部 砂糖、ラム酒、そして奴隷
(現存世界最古のラム酒蒸溜所で作られ続けているバルバドス産のラム酒)

「バルバドス 歴史の散歩道」(その7) 第5部 砂糖、ラム酒、そして奴隷
(上質なラム酒はオークなどで作られた樽で長期間熟成されます。ー バルバドスの「セントニコラス・アビー・ラム酒工房」で撮影)

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<人を所有するという発想>

 「二グロや奴隷がキリスト教徒に狼藉をおこなった場合、巡査によるムチ打ちの刑に処せられる。ふたたび罪を犯した場合にはムチ打ちに加え、鼻を削がれ焼きゴテで顔に焼印を押される。彼らは下劣な奴隷であるので、その状態にふさわしく、イングランドで行われているような12名の者による法的な裁判にかけられることはない。二グロ、奴隷がその所有者によって罰せられた際に不幸にして命、または身体の一部を失ったとしてもーーそのようなことは稀ではあるがーー罰を与えた者は責任を問われない。」これは1661年に制定された「バルバドス奴隷法」の一節です。

 この法律の前文には法目的が謳われており「彼ら(奴隷)は異教、野蛮、不安定かつ危険な種類の人間である」ので、この法が「他の商品や動産と同じように彼らを保護することを目的とする」と書かれています。一方、奴隷の側が享受するほぼ唯一の恩恵としては、「年に一度、新しい衣服を得ることができる」と定められていました。

 現代の私たちの常識からすると、とんでもない話なのですが、この法律(正式名称はなんと「二グロをより良く統制し統治するための法律」)には、17世紀の格調高い英語でそう書かれていたのです。自分たちの都合でアフリカから大西洋を越えて黒人たちを無理やり連れてきておいて「異教、野蛮・・・」はないだろうと思うのですが、その頃のイギリス人をはじめとするヨーロッパ白人のアフリカ黒人に対する見方というのはこういうものでした。

 「バルバドス奴隷法」は、世界各地のイギリス植民地のなかで白人支配層が黒人奴隷の処遇について成文化した初めての法律でした。そのため「グッド・ガバナンスのお手本(?)」となり、他のイギリス植民地もこれに倣うようになって、ジャマイカ、アンティグア、サウスカロライナなどでも似たような法律が作られていきました。

<奴隷制と今>

 奴隷制は世界の多くの地域にさまざまな形で存在していました。日本とて例外ではなく、能の「隅田川」や森鴎外の「山椒大夫」を見れば日本にも奴隷制や人身売買があったことが分かります。

 けれども、こんにち「奴隷」という単語を聞くと、多くの人は、アフリカの黒人が大西洋を越えて南北アメリカ大陸やカリブ・西インド諸島の植民地に運ばれた「大西洋奴隷貿易」によって奴隷化された人々のことを思い浮かべることが多いのではないでしょうか。それは、この貿易がかつていくつかのヨーロッパ諸国による大規模かつ組織的な国家事業として行われていたことと関係しています。当時植民地だったこれらの地域では現在、奴隷だった人々の末裔が大勢暮らしていて、いまだに人種差別をはじめとするさまざまな問題が根強く残っており、時としてなにかのきっかけで社会・国全体を大きく揺るがすことがあるからです。

 この点、今日のバルバドスでは黒人人口が圧倒的多数を占めており、むかし支配層であった白人たちは小さいコミュニティーに固まってむしろ遠慮がちに暮らしているので、黒人に対する人種差別などが問題になることはほとんどありません。けれども、どの国でも過去の歴史がその国の今に投影されているのと同様に、奴隷制の存在というバルバドスの過去が、現在のこの国の在り方や人々の行動様式に影響を残していることは否定できません。

<大西洋奴隷貿易の実態>

 大西洋奴隷貿易は16世紀にポルトガル人、続いてスペイン人によって本格化されました。彼らは安価なヨーロッパ産品をアフリカ西岸地域に輸出し、そこで黒人奴隷を手に入れました(註2)。この人たちを西インド諸島、南北アメリカ大陸の植民地に「輸出」し、そこで交換した鉱物や農産物をヨーロッパに持って帰るということを始めたのです。

 黒人奴隷は植民地の鉱山やプランテーションでの労働力として使役されました。その背景としては、当初ポルトガル、スペインの植民地で働かされていた先住民(ネイティブ・アメリカン)が労働現場での酷使、劣悪な環境や、ヨーロッパから持ち込まれたインフルエンザ、天然痘といった伝染病で激減し、労働力が不足するようになったことが挙げられます。

 17世紀に入ってポルトガル、スペインが大西洋の制海権をしだいに失ってくると、新興のイギリス、フランス、オランダ、さらにはデンマークやスウェーデンといった国までが奴隷貿易に手を染めるようになります。

 大西洋奴隷貿易は19世紀まで、300年以上にわたり続けられました。この間に一体どれくらいの人間がアフリカから連れて来られたのでしょうか。もちろん正確な数字が残っているはずもなく、後世のいろいろな調査でも数百万人から数千万人と大きな幅があって、正直なところはっきりとは分かりません。

 筆者の手元に「カリビアン・スクール・アトラス」という地図帳があります。バルバドスなど英語圏カリブの国々の義務教育課程で使われている教材です。その中には、西暦1500年から1870年までの間、アフリカ西海岸から北米に100万、中米に100万、南米に350万、そしてカリブには450万の黒人が奴隷として運ばれたという記載があります。合計1000万人ですが、いろいろな資料を比べてみると、筆者には大体そのくらいが当たらずとも遠からずの数字なのではないかと思われます(註3)。

 とは言え、いずれにしてもどの数字も額面通りには受け取れません。当時の帆船で大西洋を渡るためには少なくとも2〜3ヶ月はかかっていました。この間、船底にすし詰めにされた人々のうち、かなりの割合(一説では2〜3割)が劣悪な環境の下、病気や衰弱によって命を落とし、遺体は海に投げ捨てられていたのです。だから実際にアフリカから拉致された人の数は、目的地に生きてたどり着き奴隷化された人数よりもずっと多かったはずです。

 これほどの数の「売買」の対象となった人の多くが若くて健康な人たちだったであろうことを考えれば、供給地となったアフリカの社会、経済は数百年間にわたり壊滅的な被害を受けたと言えます。そして、その荒廃は以降のアフリカの発展にも深刻な影響を及ぼしました。

 このように考えると、大西洋奴隷貿易は、「キリスト教の博愛主義」を標榜する欧米の白人文明が歴史上、他の人種・民族に対して行った非人道的行為のうちでも最悪のものの一つだったと言えるでしょう。

「バルバドス 歴史の散歩道」(その7) 第5部 砂糖、ラム酒、そして奴隷
(奴隷船内部の様子)

<バルバドス奴隷制のはじまり>

 バルバドスにアフリカ黒人奴隷が組織的に連れてこられるようになったのは17世紀半ばからです。

 イギリスによるバルバドスの植民地化当初には、白人の年季奉公人が主要な労働力であったことは前に述べました。そのころのバルバドスの最大の収入源はタバコ葉でした。イギリスから来た入植者たちは、はじめのうちは比較的小規模な農園で、年季奉公人を使って栽培したタバコをヨーロッパに輸出していたのです。

 ところが、ほどなくして島のタバコ産業は苦境に立たされます。北米のイギリス植民地・バージニアでできるタバコとの競争に負けたためです。バージニア・タバコはバルバドス産のそれよりも質が良く、これに目をつけたイギリス本国がバージニア・タバコの関税を非常に低く設定したため、バルバドスのタバコ輸出は立ち行かなくなってしまったのです。

 この時バルバドスに手を差し伸べたのはオランダでした。海洋国家として台頭していたオランダの商人は、塩漬け保存食や衣類などの安価な生活物資を供給したり、タバコ農園の経営者に低利の金貸しを行なっていました。

 オランダ人はバルバドスのタバコ産業が苦境にあると見ると、当時すでにブラジルで盛んになっていた砂糖キビの栽培をバルバドスに紹介しました。1624年にブラジル東部のバイーアをポルトガルから奪取したオランダは、1630年にレシフェを中心にオランダ領ブラジルを建てます。そして、ここでの砂糖キビ栽培のためにアフリカ人奴隷を連れてくるようになっていたのでした。イギリスやフランスが本格的にカリブ進出を始めたのはちょうどこの頃のことですから、オランダは商売の上でイギリス、フランスの一歩先を行っていたわけです。1637年にブラジルから最初に砂糖キビをバルバドスに持ち込んだのはピーター・ブロウアーというオランダ人だったといわれています。オランダ人は商売上手で、バルバドスのタバコ農園主たちをブラジルまで連れて行き、砂糖キビ・プランテーションの「見学ツアー」みたいなことまでやっています。

 バルバドスの気候と土壌は砂糖キビ栽培に適していました。はじめのうちは砂糖キビ自体を食用にし、茎を圧縮してできる糖蜜からラム酒だけを作っていたのですが、1640年代からは輸出品としての砂糖作りがはじまります。

 そのころ、ヨーロッパでは、中国、日本から伝わった茶や、西アジアから伝わったコーヒーを飲むことが流行するようになっていました。お茶やコーヒーを飲む時には砂糖を入れたくなる。ケーキも食べたくなる。ヨーロッパにおける喫茶の習慣や、やたらと甘ったるいお菓子の文化はカリブからの砂糖の豊富な供給がなければ生まれていなかったでしょう。

 バルバドスの製糖業は短期間で軌道に乗り、砂糖とラム酒の輸出でどんどん儲かるようになります。プランテーションを拡大するために土地の囲い込みが始まり、地価は数十倍にも高騰しました。プランテーション領主は濡れ手に泡、と言いたいところですが、解決しなければならない大きな問題がありました。労働力不足です。

 それまでは白人年季奉公人が主な働き手だったのですが、これではとても足りない。だいいち、彼らは年季があければ自由の身になってしまうので永続的にこき使うことはできませんでした。白人年季奉公人の労働に支えられた大規模農業経営はサステイナブル(持続可能)なやり方ではなかったのです。

 バルバドスに新しいプロジェクトを持ちかけたのは、またしてもオランダ人でした。「人手が足りんのやったら黒人奴隷を使えばええんとちゃいまっか? 安くしときまっせ」と、オランダ語訛りの英語で囁いたのかどうかは分かりませんが、オランダは落ち目のポルトガルから西アフリカの奴隷積み出し拠点を引き継いでいたため、奴隷を売りさばく得意先を捜していたのです。

 バルバドスのプランテーション領主たちは、この話に飛びつきました。バルバドスに残されている史料によると、1645年には6千人に満たなかった黒人人口は1684年には6万人となり、白人人口の3倍を数えるまでになったということです。一方、白人年季奉公人の数は減っていき、1684年にはわずか2千人ほどになりました(註4)。

 バルバドスで奴隷制が定着した背景には、タバコから砂糖へ、つまり中世的、牧歌的な小農経営から近代の初期資本主義的な大規模プランテーション経営への移行という産業構造の変化があったのです。

<砂糖とラム酒の作り方>

 砂糖キビ・プランテーションで働かされていた黒人奴隷たちの日常はどんなものだったのでしょうか?

 奴隷たちの間にもいろいろと職能の分化があったのですが、なかでもいちばん厳しかった「現場」の1日を見てみることにしましょう。

 ーー夜が明けると寝床のある粗末な小屋から砂糖キビ畑まで歩き、一日の労働が始まる。畑では身の丈よりも高い砂糖キビを一本一本刈り取る。ナタで葉を落とした茎を加工場まで運び、石でできた重たい人力圧搾機にかけて3、4人がかりで力をふり絞って押しながら軸を回す(註5)。すると甘味の成分をたっぷり含んだジュースがとれる。いったん樽に貯蔵したジュースを、今度は鉄釜に移して煮詰める。釜が冷えるとジュースが固まってしまうので、釜には24時間火が絶えることはなく、遅番は灼熱の釜小屋での夜通しの作業になる。こうして濃縮されたジュースを取り出して冷ますと、結晶化した砂糖ができる。この過程で下に溜まった糖蜜を取り出し、酵母で発酵させてから蒸留・熟成させてラム酒を作る。ーー

 ざっとこんな具合ですが、奴隷たちはトウモロコシの粥とベーコンで空腹を満たしながら、これを毎日続けたのです。砂糖キビの葉は鋭くて素手の作業はたいへんな苦痛をともなうものでした。それになによりもカリブの太陽が照つける下での仕事です。今のような洗練された製法がなかった当時のラム酒は荒削りで安価な飲み物で、重労働でフラフラになった奴隷に飲ませる気付け薬の役割も果たしていました。

 カリブの砂糖キビ・プランテーションにおける奴隷労働は北米の綿花プランテーションでのそれよりもずっと苛酷であったと考えられています。後世、カール・マルクスは「奴隷制がなければ綿花はない。綿花がなければ近代工業はない。奴隷制は植民地に価値を与え、植民地は世界貿易を作り出し、世界貿易は機械的大工業の必須条件である」(註6)と喝破し、奴隷制がイギリス産業革命の大きな要因のひとつだったことを指摘しました。しかし、さすがのマルクスも北米の綿花プランテーションには目を向けていたものの、カリブの砂糖キビ・プランテーションにまでは気が回らなかったようです。

 現在、世界有数の金融センターになっている、イギリス・ロンドン東部のカナリー・ワーフは、かつてカリブから輸入する砂糖、ラム酒を積み下ろし貯蔵するためにテームズ川沿いに造営されたドックランド(埠頭)でした。カナリー・ワーフの旧砂糖貯蔵庫跡にあるロンドン・ドックランズ博物館の展示には「1790年代にはイギリスの富の4分の1は西インド諸島との貿易によるものと推定された」と記されています。

「バルバドス 歴史の散歩道」(その7) 第5部 砂糖、ラム酒、そして奴隷
(現在の砂糖キビ畑 ーバルバドス内陸部の風景)

「バルバドス 歴史の散歩道」(その7) 第5部 砂糖、ラム酒、そして奴隷
(「モーガン・ルイス風車塔跡」。バルバドス島内で唯一、羽根軸が残る風車塔です)

<プランテーションはブラック企業>

 「バルバドス奴隷法」を見れば分かるように、「奴隷の人権」などという発想はなかったので、休暇や労働の合理化、衛生環境の整備といった「福利厚生」が顧みられることはまったくありませんでした。若い奴隷の死亡率も高く、奴隷たちが総じて短命だったことは容易に想像できます。けれども、砂糖キビ・プランテーション領主にとっては奴隷の生活条件の改善に投資するよりも、数が足りなくなったら新しい奴隷をアフリカから買ってきたほうが安上がりでした。

 18世紀を通じ、年平均にならすと毎年3千人ほどの奴隷がバルバドスに「輸入」されていました。そして、奴隷に子供が生まれれば、ただで新たな「商品」が再生産されることになり、親から引き離されて売買の対象となりました。プランテーションは、まさに究極のブラック企業だったのです(註7)。

 砂糖とラム酒の輸出による経済的繁栄はバルバドスの栄光の時代であったのと同時に、非人道的な奴隷制というダークサイド・ヒストリーという面ももっていました。本稿でこれまで紹介してきたウィロウビー男爵、エイスキュー提督などバルバドス植民地黎明期の颯爽としたプレイヤーたち、バーソロミュー・ロバーツ、黒ひげなどの海賊たち、さらには宗主国イギリスの歴代国王やクロムウェルといった歴史上の有名人は、皆、奴隷制によってもたらされる富の受益者でした。

(第5部 「砂糖、ラム酒、そして奴隷」は次回に続きます。)


(註1)多くのラム酒のアルコール度数は40〜50度。ラム酒には、樽で熟成させてできる褐色のゴールド・ラム酒、活性炭などに通し濾過してできるホワイト・ラム酒などの種類があります。高品質のものの多くはゴールドです。

(註2)大西洋奴隷貿易による奴隷の供給地だったのは、主に現在のギニア、ガーナ、コートジボアール、ナイジェリア、カメルーン、シエラレオーネといった国々がある地域でした。 こんにちのバルバドス国民のうち多くはガーナ付近にルーツを持つと考えられています。

(註3)面積的に小さいカリブに連行された黒人の数が多いのは、カリブでは奴隷の死亡率がとりわけ高く、頻繁に「代替補給」する必要があったことに加えて、バルバドスをはじめとするカリブの島々が北米など他の地域への奴隷移送の経由地だったからだと考えられます。

(註4)白人年季奉公人の制度は19世紀にはなくなりました。しかしその後、数世代を経ても白人コミュニティー内での社会階層を上っていくことができなかった一部の年季奉公人の子孫がバルバドスには残っていて、現在も島内のある地域に400人ほどが集住しています。この人々は「プア・ホワイト」とか「(彼らの白い足の肌は日にやけると赤っぽくなるため)レッド・レッグス」と呼ばれて差別と偏見の対象になっています。社会から取り残された彼らの貧困、失業、非就学に加え、閉ざされた集団内での近親婚の繰り返しによる障がいなどは解決の難しい問題になっており、現代バルバドス社会の暗部となっています。この人たちの多くが、かつてのアイルランド系年季奉公人の末裔であるため、近年アイルランド政府が救済に乗り出したのですが、あまりうまくいっていないようです。

(註5)砂糖キビの茎の圧搾には、のちにオランダから風車の技術が導入されるようになりました。今でもバルバドス島内のあちこちに石造りの大きな風車塔の跡が残っているのはこのためです。

(註6)マルクスがロシア人の友人、パベル・アンネンコフに宛てた1846年12月28日付け書簡の中の言及。

(註7)1970年代、バルバドス南部のクライスト・チャーチ教区にある旧プランテーションの敷地で、奴隷墓地の発掘が行われました。ここは1660年代にサミュエル・ニュートンという入植者が開いたプランテーションの中の奴隷集落の一画で、数世代にわたる老若男女約6百人が埋葬されており、彼らの日用品や食器なども一緒に見つかっています。「ニュートン奴隷墓地」とよばれるこの場所は、西半球で保存されている最大の奴隷集団埋葬地のひとつです。



(本稿は筆者の個人的な見解をまとめたものであり,筆者が属する組織の見解を示すものではありません。) 

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