一般財団法人 国際協力推進協会
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「バルバドス 歴史の散歩道」(その6)


 第4部 海賊たちの系譜(続き)

寄稿:前・駐バルバドス日本国大使 品田 光彦
「バルバドス 歴史の散歩道」(その6) 第4部 海賊たちの系譜(続き)
(ヘンリー・モーガン)

<海賊たちの栄光と没落>

 「海賊」という言葉には、「ならず者」とか「犯罪者集団」を連想させる響きがあります。けれども、先に紹介したジョン・ホーキンスやフランシス・ドレイクのように、16世紀にはイギリス王室の後押しを受けた私掠船が他の国、主としてスペインの船を襲って金品を強奪するという、いったい公の船団なのか強盗集団なのかよく分からないような連中がカリブ海を跋扈していました。

 17世紀に入ってもしばらくはこういった傾向が続きます。ヘンリー・モーガン(1635〜1688年)という海賊もそのひとりでした。1650年、15歳でウェールズから年季奉公人としてバルバドスに渡ってきたモーガンは、5年後に奉公の期限があけるとジャマイカに流れて海賊に転職。メキメキと頭角をあらわした彼はジャマイカを根城とする海賊船の船長としてスペイン領のキューバやパナマを襲撃して大いに稼ぐようになります。稼ぎの一部をジャマイカ植民地を通じてイギリス本国に上納していたことは言うまでもありません。イギリスのライバル、スペインの富を奪って名だたる「公賊」になったモーガンは、その「功績」により国王チャールズ2世からナイトの称号を与えられました。そして、しまいにはジャマイカ植民地の副総督にまで出世し、今度は海賊を取り締まる側になりました(もっとも、彼はその裏で、賄賂を払う私掠船にはスペイン船を襲う認可状を与えていたらしいのですが)。

 海賊上がりのモーガンが曲がりなりにも海賊取り締まりをたばねるようになったことからも分かるように、この時期になると海賊行為は国のプロジェクトとしての性格を失い、ほぼ完全に違法な略奪行為の様相を見せはじめます。バーソロミュー・ロバーツや黒ひげ、そして我らが紳士海賊スティード・ボネットなどがカリブを荒らしまわっていたのはこの頃で、彼らは「海のアウトロー」として海賊の黄金時代を生きていました。

 ところがこの後、カリブに進出していたヨーロッパ列強の国家体制が徐々に近代化し、海軍力も整備されてきて、各国は植民地の港に正規軍を常駐させ商船隊を保護する命令系統が整ってくるようになります。とくに1707年にイングランドとスコットランドの合同によって文字通り「グレートブリテン王国」となっていたイギリスは、当時のジャマイカの中心地、ポート・ロイヤルに強力な艦隊をおき海賊の取り締まりを強化するようになりました。また、綿花の輸出によって経済力をつけ独り立ちの気運を高めつつあった北米のイギリス植民地も、海賊に十分対抗できるだけの海軍力を持つようになります。

 こうしてカリブの海賊業界はしだいに斜陽産業となり、19世紀に入る頃には、海賊たちは官憲に捉えられるか引退するかを選択するしかなくなってしまったのでした。そして、1830年代に帆船にかわって蒸気船が主流になったことも海賊に決定的な打撃をあたえます。髑髏マークを描いた旗を掲げた帆船を繰ってカリブを荒らし回った海賊たちは、こうしてしだいに消えていくこととなります。

 ところが、海賊が衰退しつつあった19世紀前半の一時期、バルバドスに奇妙な海賊が現れました。

<「城」に住む海賊 サム・ロード>

 1820年から20年ほどのあいだにバルバドス南東部の沖合いで商船の座礁事故が頻発しました。20隻以上が海岸からそれほど遠くない岩礁に乗り上げたという記録が残っています。そして、それらの船の多くが、立ち往生しているうちに近づいてきた海賊船に襲われ、積荷や金品を奪われたというのです。

 そのうちに聞き捨てならない噂が人々の口にのぼり始めました。「夜間航行していた船が陸地にたくさんの明かりが灯っているのを見て、そこが首邑ブリッジタウンの港だと思って近づいたら岩礁に乗り上げた。ブリッジタウンの明かりだと思ったのは実際にはビーチに面して建つ大きな館のまわりに群生しているココナツの樹に吊り下げられたランタンの灯火だった」という噂です。そしてその館、「サム・ロード城」の主人こそが座礁した船を襲う海賊の首領に違いない、という風評が立ったのです。  ロング・ベイという美しい湾に面してそびえるこの館の主はサミュエル・ホール・ロード、通称サム・ロード(1778−1844年)という人物でした。彼は、バルバドス、セント・フィリップ教区の生まれ。父親は砂糖キビ・プランテーションの所有者で、サム・ロードはなんの不自由もない豊かな環境に育ちました。ところが彼は若い頃から素行が悪いことで有名でした。ひどく見栄っ張りで、平気で人をだます上にかなりの乱暴者だったということです。

 裕福なロードは、たびたび宗主国イギリスに旅行していたのですが、20代後半にイギリスでルーシー・ワイトウィックという美しい娘と出会います。ルーシーも富裕な名家の出身でした。彼女は、それまで見知っていた堅苦しいイギリス男たちとは一風変わった、カリブ出身のプレイボーイ、サム・ロードの甘言に乗せられて、彼からの結婚の申し出を受け入れました。言い伝えによれば、社交界に出入りしていたロードはカネと名誉目当てにはじめからそれに見合う女性を物色していたということになっています。ルーシーの父親はロードの本性にうすうす感づいていたのか、娘とロードの結婚に猛反対したそうです。でも、ロードにぞっこんだったルーシーは父の反対を振り切って、1808年、彼とともにバルバドスに向かいました。

 ところが、結婚生活はルーシーが思い描いていたのとはまるで違ったものになってしまいます。ロードはとんでもないDV夫だったのです。年を経るごとに彼は本性を見せはじめ、ルーシーはひどい扱いを受けるようになり、しまいには居館の地下室に軟禁状態にされて、まるで囚人のような暮らしを強いられていたというのです。この間、ロードは外で贅沢ざんまいの放蕩に明け暮れたばかりか、使用人だった黒人奴隷の女性を愛人にして、ふたりの息子をもうけています(註1)。ルーシーは結婚7年目の年に、地下室の見張り番をしていた男に金品を渡して脱出の手引きをさせ、イギリスに逃げ戻ったということです。

「バルバドス 歴史の散歩道」(その6) 第4部 海賊たちの系譜(続き)
(サム・ロード)

<「城」建設とロードの末路>

 ロードが、父親から受け継いだロング・ベイの敷地に豪邸を建設することに執念をみせはじめたのはこの頃からでした。

 「サム・ロード城(サム・ロード・キャッスル)」とみずから名付けた豪邸の建設は彼のライフワークとなるのですが、当然これには多額の資金が必要です。父親から相続したカネをつぎ込んでもとても足りない。ロードは次から次へと借金を重ねます。「城」を建設中の1817年には早くもトラブルを起こし詐欺で訴えられましたが、この時は証拠不十分で処罰を免れています。

 サム・ロード城は1820年に完成。当時イギリスで流行していたジョージアン様式で、珊瑚由来の白い石灰岩をふんだんに使い広大な庭園に囲まれたこの建物は、豊かなプランテーション領主が多かった当時のバルバドスでも屈指の贅沢な個人用邸宅でした。

 ロードはここで王侯気分の暮らしを始めます。けれども内情は返済する見通しの立たない借金まみれ。大勢の債権者とのトラブルや訴訟が頻発するようになります。しかし、悪知恵にたけたロードはここで一計を案じます。ビーチに面して建つ城から沖をながめると岩礁が多い海域でときどき座礁する船があるではないか、これを放っておく手はない、というわけです。

 彼は、先に触れたようなやり方ーー城のまわりに群生するココナツの樹にカンテラをぶら下げ、船に航路を見誤らせて座礁させるーーという方法を使って、餌食となった船から金目のものを略奪することを思いついたのです。贅沢暮らしを続けながら借金を返すために、この奇抜な海賊行為を繰り返すという自転車操業がはじまりました。サム・ロード城の中を飾っていたヨーロッパ製の高価な家具や絵画の一部は、彼がこうして奪い取ったものも混じっていたと考えられています。

 けれども海賊行為をするには手下が必要です。やはりどこからか情報が漏れる。もともと評判が悪かったロードが卑劣な海賊行為に手を染めるようになったのではないかという説がしだいに島内に知れわたるようになります。さしものロードもとうとうバルバドスにいられなくなって、心血を注いで築いた城をあとにして、ひそかにイギリスに逃亡してしまいます。無一文となった彼はその後二度と島に戻ることはなく、1844年、イギリスで孤独と貧窮のなかで世を去ったそうです。(註2)

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 ロードが虚飾の人生を送った豪邸には後日譚があります。

 彼の死後、親族の手にわたったサム・ロード城は、100年近くのあいだ親族の子孫に代々所有されていたのですが、1942年、人手にわたりホテルに改修されました。「サム・ロード城ホテル」と名付けられたこのホテルは何度かオーナーを変えながらも、一時はバルバドス島内でも有数の高級ホテルとして知られた時期もあったのですが、2000年代に入ると放漫経営がたたって倒産してしまいます。

 2010年、荒れるにまかされていたサム・ロード城で原因不明の火災が発生。建物は分厚い石灰岩の外壁だけをのこして焼け落ちてしまいます。このあとサム・ロード城はバルバドス政府の管理下に置かれることとなりました。

 さて、この島でも新型コロナ感染症が蔓延していた最中の2021年2月、地元の日刊紙にこんな記事が掲載されました。

<セント・フィリップ教区のサム・ロード城再開発プロジェクト現場周辺の住民たちから懸念の声があがっている。新型コロナによる政府の厳しい外出制限にもかかわらず、プロジェクト現場では多くの作業員が工事を続けているというのである。本紙チームが現場をたずねてみると、30人ほどの中国人作業員が重機を使って仕事をしていた。我々が写真を撮っていることに気づくと彼らは作業をやめて立ち去った。マスクをつけていたのは数人のみだ。工事を請け負っている中国系建設会社の通訳に本紙記者が事情を聞いたところ、“作業などしていない。機材を雨から守るために覆いをかけていただけだ。ここにいるのは現場に住んでいる中国人作業員だけで部外者の立ち入りは禁止されている“という答えが返ってきた。サム・ロード城は2015年にアメリカの大手観光開発企業、ウィンダム・グランド・リゾート社に買収されることとなり、450室の五つ星ホテルの建設のために中国輸出入銀行が2億4千万ドルを融資した。新ホテルの建設工事は2017年に始まり、2020年には竣工予定だったものの、建築工法、文化、倫理観や支払いをめぐる関係者間の意見の違いにより工事が遅れている>(2021年2月20日付「サタデー・サン」紙記事から抜粋)

 奇想天外な海賊行為をしていた放蕩児サム・ロードが19世紀に築いた豪邸の数奇な運命は今も続いているようです。そのうちさぞかし立派なホテルができるのでしょうけれど、泊まってみたいという気になれないのは筆者だけでしょうか?(註3)

(第5部「砂糖、ラム酒、そして奴隷」に続く)


「バルバドス 歴史の散歩道」(その6) 第4部 海賊たちの系譜(続き)
(サム・ロード城の敷地から見たロング・ベイの風景。この沖合いで座礁事故が頻発しました。)

「バルバドス 歴史の散歩道」(その6) 第4部 海賊たちの系譜(続き)
(廃墟になったサム・ロード城。右手に見えるのは建設中の新ホテル。ーー2022年4月撮影)

「バルバドス 歴史の散歩道」(その6) 第4部 海賊たちの系譜(続き)
(英語と中国語の看板がある新サム・ロード城ホテル建設現場の入口。ーー2022年4月撮影)


(註1)この息子たちについては記録が残っています。彼らは成人するとセント・ルシア島に移り、さらにその後カナダに移住。その子孫は現在もカナダに住んでいることが確認されています。

(註2)後世の検証によれば、ロング・ベイ沖の座礁事故のすべてがロードのしわざというわけではなかったようです。というのは、いくつかの事故は、ロードがイギリスに遊びに行っていてバルバドスを留守にしていた時期に起きたからです。しかしやはり、かなり多くの座礁と略奪がロードと部下たちの犯行であったことは間違いないと考えられています。なお、1875年にサム・ロード城があるセント・フィリップ教区の海岸に灯台が設置されて以降、座礁事故はパッタリと途絶えたということです。

(註3)ロードの妻、ルーシーが幽閉されていた館の地下には館と海岸を結ぶ地下道があって、そのどこかにロードが隠した財宝が残っているという言い伝えがありました。この建物が火災で廃墟になったあと財宝を捜した人たちもいるようですが何も見つからなかったそうです。また、座礁事故が頻発した沖合では、座礁船に積まれていた金貨を捜す酔狂なダイバーたちが現在もいるのですが、何かが見つかったという話は聞いたことがありません。



(本稿は筆者の個人的な見解をまとめたものであり,筆者が属する組織の見解を示すものではありません。) 

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