一般財団法人 国際協力推進協会
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「バルバドス 歴史の散歩道」(その2)


  第1部 珊瑚の島の前史

寄稿:駐バルバドス日本国大使 品田 光彦
「バルバドス 歴史の散歩道」(その2) 第1部 珊瑚の島の前史
(バルバドスの典型的な石灰岩地層)

 筆者がバルバドス島内のいろいろな場所を巡っているうちに気がついたことがあります。急な斜面や道路の切り通しで地層があらわになっているところは,たいていデコボコした白っぽい岩でできているのです。

 これはバルバドスが太古の地殻変動で珊瑚礁が隆起してできた石灰岩の島だからです。地表に出ている岩盤の表面を間近から見ると大昔の珊瑚の痕跡がくっきりと残っていることもあります。

 バルバドスはカリブ海の東南端に弧を描くように並ぶ小アンティル諸島に属します。セントビンセントやセントルシアといった近隣の島々はどこも火山島なので,溶岩や火山灰に由来する,もろくて赤茶けた土壌が目立ちます。ですが,ひとり東に離れ大西洋側に飛び出しているバルバドスだけは島の成り立ちが違っているのだということを後になって知りました。

 こういう地質なので島の地盤はしっかりしています。ときどき大雨が降るのですが,土砂崩れが起きたという話は聞いたことがありません。また,石灰岩地帯によく見られる鍾乳洞がいくつかあります。とくに,観光名所になっているハリソンズ・ケーブという島中央部にある最大の鍾乳洞は,日本でもちょっとお目にかかれないような大きなものです。ガイド付きのトロッコ列車が1時間ほどかけて回る洞窟の内部は一見の価値があります。

「バルバドス 歴史の散歩道」(その2) 第1部 珊瑚の島の前史
(ハリソンズ・ケーブ鍾乳洞)

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<最初に来た人々>

 珊瑚礁がせり上がってできたこの島にいつから人が住むようになったのかは,はっきりとは分かっていません。考古学上の調査で,紀元前後にはバランコイド族という種族がここに住んでいた痕跡が見つかっています。

 時をはるかにさかのぼる氷河時代。今はベーリング海峡になっているあたりでユーラシア大陸とアメリカ大陸は地続きになっていました。この回廊を通って人類がユーラシアからアメリカに渡って来ました。諸説ありますが,だいたい2万数千年ほど前のことだと考えられています。のちにネイティブ・アメリカン(「インディアン」「インディオ」)と呼ばれるようになった彼らは長い年月をかけて南北アメリカ,そしてカリブの島々に広がっていきました。バランコイド族をはじめとするバルバドス島の先住民もそういった人々の一派でした。

 バランコイド族は7世紀初め頃まで島にいましたが,その後,姿を消しています。

 それから200年ほどすると,南アメリカ大陸からトリニダード島を経由してアラワク族という種族がカヌーを操ってバルバドスにやってきました。アラワク族は海で魚を捕り,キャッサバやトウモロコシを焼き畑で栽培する人々でした。彼らが使っていた精巧な土器やホラ貝で作った刃物(註1)などが出土しています。

 アラワク族は400年間ほど平和に暮らしていたようですが,13世紀頃にカリブ族が島にやって来ます。カリブ族はウミガメの甲羅や魚の背骨で作った矢じりを用いる好戦的な人たちだったらしく,彼らによってアラワク族はあっという間に駆逐されてしまいました。

 カリブ族は小アンティル諸島全域に広がっていたのですが,バルバドスではカリブ族特有の特徴をもつ土器がほかの島の数倍も見つかっているので,ここが東カリブ地域の中でカリブ族の中心地だったのではないかと考えられています。

 のちにヨーロッパ人がやって来るまでこの地域の主要な民だったカリブ族は,食人の風習をもっていたということになっています。1564年,ドミニカ島にスペイン船が漂着し,船員たちがカリブ族に殺され食べられてしまった,その40年後,今度はフランスの船がセントビンセント島で同じ目にあったという記録があるーーものの本にはそう書いてあります。「カニバリズム(食人の風習)」というヨーロッパの言葉はカリブ族の「カリブ」が転訛したのだ,というまことしやかな説もあります。でも,可哀想な乗組員たちがみんな食べられてしまったのなら,どうして記録が残っているのか,筆者にとっては「謎」なのですが・・・。

 それはともかく,バルバドス島にカリブ族がいたことは1500年代初めにスペイン人によって確認されています。が,1536年にペドロ・ア・カンポスというポルトガル人が率いる船がバルバドスにやってきた時には,カリブ族はいなくなっていて島は無人島になっていたということです。彼らが姿を消してしまったのは,ときどき立ち寄っていたヨーロッパ人が持ち込んだ天然痘,はしか,インフルエンザといった伝染病に,抵抗力をもたない島の人々がやられてしまったことや,スペイン人が当時カリブの拠点にしていたイスパニョーラ島(現在のハイチとドミニカ共和国がある島)などの労働力として彼らを連れ去ったのがその理由だろうと考えられています。

 ちなみに「バルバドス」という島名は,この頃にペドロ・ア・カンポスらポルトガル人がつけたもので,ポルトガル語の「オス・バルバドス」=「髭のはえた者」に由来します。これは,この島が髭を想わせるような,たくさんのツタを垂らした木々に覆われていたからだといわれます。バルバドスを日本語に直訳すると「髭ヶ島」といったところでしょうか。

「バルバドス 歴史の散歩道」(その2) 第1部 珊瑚の島の前史
(髭のようなツタを垂らした木 ーポルトガル人たちは、こういう木々を見て「バルバドス(髭ヶ島)」と名付けたのでしょうか?)

<大航海時代のカリブ>

 15世紀の末ごろから西ヨーロッパの人々は,造船技術の進歩や羅針盤をもちいた航海術の発展を背景に外の世界に向けて進出をはじめました。彼らはアジアの産物,とりわけ当時のヨーロッパで必需品となっていた胡椒などの香辛料を欲していました。それまでは東方のオスマン帝国経由や,ベネチア商人の仲介での地中海貿易に頼っていたのですが,各国は物産を直接安く手に入れるために新航路の開拓に活路を求めました。西欧史上にいう「大航海時代」のはじまりです。

 大航海時代をまずはじめに牽引したのはポルトガルとスペインでした。

 ポルトガルは早くも15世紀前半から大西洋を南下して西アフリカに乗り込んでいきます。1486年にはバルトロメオ・ディアスがアフリカ大陸南端の喜望峰を発見し,これでアフリカを迂回してインドに至る航路の可能性が開けました(註2)。

 ポルトガルと競うスペインは逆のコースをとることを試みます。当時の世界地図には南北アメリカ大陸やカリブ海は載っていなかったので,大西洋を西に進めばアジアに着くと考えたのです。

 スペインのイサベル女王は,ジェノバ出身のイタリア人クリストファー・コロンブスを援助して,西回り航路でのアジア到達の航海に送り出しました。コロンブスは1492年8月にサンタマリア号でスペインを出発。2ヶ月の航海の末に陸地にたどり着きました。この陸地はバハマ諸島のワトリング島だったと現在では考えられています。コロンブスがたどり着いたのはカリブの島だったのです。

 コロンブスは1492年から1504年の間に4度大西洋を渡り,アメリカ大陸を「発見」したということになっているのですが,彼が最後まで自分はインドに着いたのだと思っていたというのは有名な話です(註3)。このためにカリブの島々は「西インド諸島」と名付けられ,現在でもそう呼ばれているわけです。

 コロンブスのアメリカ「発見」と前後して,西半球でのスペインとポルトガルの領土争奪戦が激しくなります。両国の争いを収めるために,1494年,ローマ教皇アレクサンデル6世の仲介でトルデシリャス条約が結ばれました。この条約で,アフリカ西海岸はるか沖の子午線よりも西側での発見地をスペイン領,東側での発見地をポルトガル領とすることとなりました(すでに先住民が住んでいるのに,この人たちは勝手にそう決めたわけです。ヨーロッパ人のこのような性癖はその後数世紀にわたって続くことになります)。スペインがアメリカ大陸に,ポルトガルがアフリカ大陸に植民地をもつようになったのはこのためです(註4)。

 これで,カリブ海はいったんスペインの縄張りとなりました。

<小アンティル諸島はオマケだった>

 スペインがカリブで地歩を築いた地域は,バルバドスが属する小アンティル諸島ではなく,もっと北西にある大アンティル諸島のイスパニョーラ,キューバ,ジャマイカ,プエルトリコといった大きな島々でした。スペイン人はこれらの島で銀を採掘したり,プランテーションを開いてタバコ,胡椒,熱帯果実などの栽培をはじめ,やがて砂糖キビが主要な作物となります。

 大アンティル諸島だけでもかなりの土地があり,それなりの収益が得られたので,スペイン人は小粒な島々からなる小アンティル諸島にはあまり関心がなく「オマケ」程度に考えていたようです。バルバドスのような小さい島にまで入植する余裕もなかったし,採算が合わないと考えたのかもしれません。小アンティル諸島に定住することはなく,航海の途中に立ち寄って水の補給をしたり,大アンティル諸島で働かせるため,まだ生き残っていたアラワク族やカリブ族狩りをしていたのです。これらの先住民は,過酷な労働や伝染病のためにじきにほとんど死に絶えてしまい,やがて代わりの労働力としてアフリカから黒人奴隷が連れて来られるようになります。当時,大西洋奴隷貿易を仕切っていたのは,西アフリカに奴隷輸出の拠点を築いていたポルトガルでした。

<新興勢力の台頭>

 16世紀後半になると,海洋進出をめぐるヨーロッパ諸国の力関係に変化が起きます。ポルトガル,スペインの覇権に影がさし,フランス,オランダ,イギリスといった新興勢力が現れたのです。

 海洋大国として一時期隆盛を誇ったポルトガルは,国王セバスティアン1世がアフリカ遠征で戦死したため王統が絶え,1580年からの一時期,スペインに併合されます(1640年に再独立)。

 スペインのライバル,フランスは長く続いた宗教内乱であるユグノー戦争(1562~98年)を終わらせたブルボン家のアンリ4世の下で,のちの繁栄の礎を築きます。

 スペインの属領だったオランダは,長期間にわたってスペインからの独立戦争(1568~1609年)を戦いましたが,戦時中から中継貿易を基軸に急速な海洋進出を進めます。

 一方,イギリスではテューダー朝のエリザベス1世の治世下,イギリス国教会体制が確立して絶対王政の最盛期をむかえました。国内では毛織物工業が発達し,これをもとに海外進出を活発化させます。文化の面でも華やかな時代をむかえ,シェークスピアなどが活躍したのもこの頃のことです。1588年にはイギリス侵攻を企てたスペインの無敵艦隊にイギリス海軍が勝利し(アルマダの海戦),スペインの海上覇権が衰えるきっかけになりました。

 無敵艦隊と戦った時にイギリス海軍の副提督として戦果をあげたフランシス・ドレイクという人物がいます。「海軍副提督」というと聞こえはいいのですが,「キャプテン・ドレイク」として知られたこの男は,元をただせば,10歳で船乗りになって,長じては西インド諸島で奴隷貿易をやりながらスペインの船や植民地を襲って暴れ回っていた海賊です。当時の大西洋,カリブ海では,王室の「認可」を受けて堂々と他国の船を襲撃する私掠船が横行しており,ドレイクはその一人でした。彼らは掠奪した利益の一部を王室に上納し,これが王室の一大財源となっていました。当時のイギリスという国は,こういうふうに国ぐるみで広域暴力団さながらの稼ぎ方をしてのし上がってきた新興国家でした。

 イギリス人として初めて世界1周も達成したこのドレイクは,のちにその多大な功績によってエリザベス1世から「サー」の称号を受け,ナイトに叙せられました。イギリス上流階級の方々がお上品になるのはもっと後世のことで,この頃は貴族や高級軍人といっても,逞しくもガラの悪い人たちだったようです(註5)。

 そのひとりにトーマス・ワーナーという人物がいます。ワーナーは国王ジェームズ1世(エリザベス1世没後のステュアート朝初代の国王)の近衛師団士官をつとめていました。1620年,彼は南アメリカのガイアナにあったイギリス占領地に配属になりますが,3年後、そこから船で北上して小アンティル諸島のひとつ,セントキッツ島に上陸。その後一族郎党とともにこの島に定着してタバコ農園を開きました。このセントキッツがカリブ海で最初のイギリス植民地になったのですが,数年後,ワーナーとその配下のイギリス人たちは,あとからやって来たフランス人たちと組んで,島の先住民カリナゴ族(カリブ族の支族)2千人を殺害しています。

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 新興の国々は,100年も前にスペインとポルトガルが勢力範囲を決めたトルデシリャス条約ーつまりは既存の国際秩序ーなど「オレらには関係ない」とばかりに,カリブの島々の争奪戦を繰り広げるようになります。植民地の富を満載した商船や,アフリカから拉致してきた人々をギュウギュウ詰めにした奴隷船が行き交い,そして彼らには海賊船が襲いかかります。カリブ海は「なんでもあり」の無法地帯となっていきました。

 こういった中でバルバドス島を手中に収めたのはイギリスでした。

(第2部「イギリス人の植民地ビジネス」に続く)


「バルバドス 歴史の散歩道」(その2) 第1部 珊瑚の島の前史
(「バルバドス博物館・歴史協会」の建物 ーこの建物は植民地時代、イギリス駐屯軍の刑務所でした)

(註1)石灰岩でできたバルバドスには硬質の岩石がないので,先住民の武器や刃物は動物由来の材料で作られていました。これらの遺物は「バルバドス博物館・歴史協会」に展示されています。

(註2)のちバスコ・ダ・ガマが喜望峰を回り,インド洋を横切って1498年にインド西部に到達します。

(註3)やがてアメリゴ・ベスプッチの探検で,これがアジア大陸とは別の大陸だということが明らかになったので,彼の名にちなんで「アメリカ」と呼ばれるようになりました。

(註4)南アメリカのうちブラジルだけは,ポルトガル人ペドロ・アルバレス・カブラルが1500年にここに漂着したのでポルトガル領となりました。ブラジルでは早くも16世紀にはアフリカ人奴隷を使って砂糖キビの栽培が盛んになりました。

(註5)そもそもエリザベス1世自身,自分のイングランド王位継承権の正当性への挑戦者だった,縁戚の元スコットランド女王メアリー・ステュアートを処刑しています。このことがエリザベスと敵対していたスペインのフェリペ2世の介入をまねいてアルマダの海戦につながりました。もっとも,後継ぎがいなかったエリザベスの死後,イングランド王になりステュアート朝の開祖となったのはメアリー・ステュアートの息子であるジェームズ1世で,この血筋は現在のイギリス王室まで受け継がれています。



(本稿は筆者の個人的な見解をまとめたものであり,筆者が属する組織の見解を示すものではありません。) 

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